唯識仏教は、心の深層の利己心を徹底的に分析・記述し、さらにそれが利他心へと変貌していく可能性を展望した。ここでは心を見つめる唯識に特有な構造を、シュッツの日常世界論と比較しながら論ずる。
1 唯識仏教の深層心理学
仏教は元来、六つの識をあげる。まずは眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(臭覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)の五感のは働き(前五識)である。つづいて第六識意識は、推理・判断などことばを用いた思考作用あり、感情・意志なども含めたいわゆる「心」の働きである。しかし唯識は、さらにその深層に働く第七識の「マナ識」と第八識の「アーラヤ識」とを発見した。マナ識は潜在的な自己我執着心であり、アーラヤ識は、さらにその深層にあって以上のすべての識を生み出す根源的な識である。
◆アーラヤ識
まずは第八識のアーラヤ識。アーラヤは、何かを「保有する」、「蔵する」という意味をもつので、この識は「蔵識」とも訳される。では何が保有されるのか。我々がこれまでに経験してきた一切である。過去のあらゆる行為(業)が沈殿してアーラヤ識に記憶される。唯識は、このプロセスを「現行は、その種子をアーラヤ識中に熏習する」と説明する。現行すなわち現実の具体的な行為が「種子」というかたちでアーラヤ識中に熏習されるのだ。ちょうど香りが衣服に移り、残り香となるように、行為の記憶が人間の深層意識に植え付けられ蓄積されていく。それを「熏習」という。またアーラヤ識に熏習された行為の記憶は、「種子」と呼ばれる。日常のあらゆる行為は沈殿して「種子」となり、再び新たな行為を生み出して行く。やがて芽が出て成長していく植物の種子のように、「種子」は心の奥底に保たれて、その後の自己形成力となり、ふたたび具体的な行為(現行)をもたらすのである。要するにアーラヤ識は、過去の経験の総体である。そしてこの識を基盤としてのみ現在の「私」や、それに伴うさまざまな心的現象が形作られる。もしアーラヤ識を川の流れにたとえるなら、その他の一切の心理作用は、流れの表面に現れては消える波や泡沫である。唯識説は、このアーラヤ識を根本原理として、内的および外的世界のあらゆる現象を説明する。
過去の一切の記憶が、何らかの仕方で脳に保存されている点は、現代科学の知見からしても事実だろう。脳外科学者ペンフィールドは、局部麻酔による手術中に、露出した脳の一部にに電気刺激を加えると、長い間忘れられていた出来事が細部までありありと、まるでそのときの音やにおいや光景を目のあたりにしているかのように再現するという。またトランスパーソナル心理学の代表的な研究者スタニスラフ・グロフは、LSDによる心理療法や、呼吸法を中心としたホロトロピック・セラピーの最中に、徹底的な心理的な退行が起こり、出産時の体験がありありとよみがえったりする事例を数多く経験し、しかもそうした出産時の記憶が事実と一致していることを母親や医師が確認した。 ただし唯識説によると、アーラヤ識中には誕生以来のすべての行為の記憶だけではなく、永遠の過去以来の行為の種子が保有されているという。つまりアーラヤ識は、一個人の生涯をはるかに超えて、遠い過去から絶え間なく相続されて現在に至り、さらに未来に向けて流転していく心的領域である。
こうした唯識の主張は現代科学の枠組から判断すれば受け入れがたいだろう。しかしそれを頭から否定することは謹むべきだ。ユングは、人間の身体が長い進化の歴史を背景にもっているように、心も同様の背景を持っていて、非常に古い心が、我々の心の基層をなすという。たとえば近代人の夢のイメージと原始人の神話的なモチーフとの間に歴史的・文化的関連性が一切ないにもかかわらず、細部の具体的な類似性も含めた驚くべき類似性を示すことが多いという。ユングは、こうした現象を生み出す「古代の残存物」を「元型」と呼んだが、近代科学は、こうした心的現象を説明する原理を一切もっていない。
◆マナ識
さて次に第七識であるマナ識とは何か。「ナマス」とは、「思う」「思いめぐらす」という意味だ。何を思うのか。ひたすらに「自分のことを思う」のである。マナ識はアーラヤ識から生ずるが、自らを生み出した母体を対象としておのれ自身と思い込み執着する。はるかな過去から相続するアーラヤ識の流れを小さな自己のものとして限定し、連綿と続く生命活動を時間的に切断する。それを自己自身の本体とみなして執着する。これは意識における利己心よりもっと根深い深層の自己執着心である。マナ識は第六意識と違い、熟睡時も、気を失ったときも常にただ自分のことだけを思量する。意識や自覚があってもなくても深層でひたすら我執だけを働かせる。それは無自覚に働く強固で執拗な利己心であり、表層の自我はこうした深層のエゴのひとつの泡沫にすぎない。
次に以上を「能変」という考え方から捉えなおそう。我々の心は、認識の対象をあるがままに受け取っているのではなく、それを取捨選択し、歪曲し、能動的に変形している。こうした働きを「能変」という。その基盤をなすのがアーラヤ識とマナ識とである。我々は、過去の一切の経験の蓄積(アーラヤ識=初能変)と深層の自己執着心(マナ識=第二能変)とによって、無自覚的に歪められたものとしての現実に出会うのである。さらに第六意識と前五識が第三能変としてこれに加わる。要するに我々は全八識によって色づけられ、変現され、歪曲された現実を見ているのだ。
2 シュッツの「日常生活の世界」
◆手許の知識の貯え
以上のような唯識説をシュッツ(Alfred Schtz,1899~1959)の思想と比較しよう。シュッツは、「日常生活の世界」の成立構造を現象学的な方法で解明するという課題を追求した現象学的社会学の創始者である。ここでは、シュッツ思想のなかの「生活史的状況」、「手許の知識の貯え」とう考え方を唯識説と比較する。唯識の言うように過去の経験の一切が心の深層に沈殿化するのは事実だろう。 シュッツは、そうした経験の蓄積を「アーラヤ識」に対応するような概念を用いて自覚的に説明しているわけではないが、個人が生まれて以来の一切の経験や知識が沈殿化し、それが個人の生活史を形成することを前提として議論を進める。ただし、それら一切の経験や知識がすべて等質的に現時点の私に「関連性」をもつのではなく、「関連性」の深い経験からそれほど深くないものへと、ある階層性をなして私に統合されるという。このように「関連性」の程度に応じて統合された一切の経験が形作る私の個人史な状況をシュッツは「生活史的状況」と呼ぶ。すなわち「生活史的状況」とは、「私の実際に現勢的な諸関心のシステムに統合されている私のかつての諸経験」である。
ところで日常生活において我々は、つねに蓄積された「手許の知識」を持っており、それを枠組として現在の経験を解釈し、未来の予測を行っている。この「知識の貯え」は過去の一切の経験のなかで構成されており、その経験の結果が「習慣的な所有物」になったものである。それは、これまでの経験が沈殿して蓄積されて形成された「生活史的状況」の一要素であり、それが類型化され習慣的に保持されるようになったものである。過去の経験は、習慣化され類型化された「手許の知識の貯え」という形態をとることで、この世界を解釈するときの類型的な準拠図式として機能する。
ところで「手許の知識の貯え」といっても、私が直接に生きてきた経験だけで成り立っているのではない。むしろその大部分は社会に由来し、両親や先生や仲間から我々に伝えられた経験や知識の集積に基づいている。それゆえ同一の文化的集団内の他の人々の持っている手許の知識は、ある程度は私の持っているものと一致する。たとえば日常言語は社会に共有された「諸類型と諸特性の宝庫」である。言語を獲得する過程で我々は、その社会が経験をどのような類型によって整序し、対象化するかを学ぶ。つまり事物を経験する仕方を学ぶ。経験の対象をある名前で把握することは、それを社会が公認した類型性にもとづいて経験することである。いずれにせよ「手許の知識の貯え」は様々な類型によって構造化されて成り立っている。そのなかには、たとえば類型的な生活様式、環境に対処する類型的な方法、「類型的な状況のなかで類型的な目的を実現するために類型的な手段を使用する効果的な方法」などが含まれる。
◆状況の定義と「手許の知識の貯え」
ところで「生活史的状況」とは、過去の一切の経験が、今の私に「関連性」の深い経験からそれほど深くないものへと階層性をなして統合されたものであった。それと同様に「手許の知識の貯え」も、我々の利害関心や特定の問題との「関連性」に応じて階層化している。一般に我々は、利害関心の深い領域には明確で詳細な知識の貯えをもち、そうでない分野については粗雑な知識しかもたない。「手許の知識の貯え」は、自分との「関連性」に応じて構造化され、組織化された類型的な知識の集積なのである。
さて、様々な事物や状況を類型的に把握することは、その事物や状況の一定の局面、ある特徴だけに光りを当てるということである。多くの特徴をもった限りなく具体的な個々の事物をある一つの類型の下に捉えるということは、その事物が他の事物と共有している一定の側面だけを強調し、他の側面を無視するということである。通り過ぎた犬は、たとえば「単なる犬」、「野良犬」、「怖そうな野良犬」、「立派な柴犬」、「隣のタロー」等々とさまざまな類型によって捉え得る。どの類型が選ばれ、どの類型が無視されるかは、その時点での私の利害関心と知識の貯えの構造に依存する。つまり私の当面の利害関心に「関連性」の高い類型が選ばれるのである。こうして、私の利害関心との「関連性」にしたがって構造化された「手許の知識の貯え」のなかから、私の関心と「関連性」の高い類型が呼び起こされることによって日常的世界の一切が解釈されていく。
では、私の当面の利害関心や問題や目的を決定しているものは何か。それは私の「生活史的状況」をなしている過去の一切の経験である。私は、私だけに独自な生活史を担い、そこからのみ自分独自の当面の利害関心や目的を紡ぎ出す。利害関心との「関連性」において「手許の知識の貯え」が構造化され、そのなかから「関連性」の高い一連の類型が呼び起こされ、その類型によって現実は解釈される。すなわち私独自の「生活史的状況」と「手許の知識の貯え」とによって状況が定義されて経験される。さらにその経験は沈殿化して「手許の知識の貯え」の一部となり、それがふたたび現実を解釈して経験する準拠図式となる。こうしたプロセスが一瞬毎に繰り返されて行くのである。
3 シュッツ思想と唯識説
◆一切の経験や知識が沈殿化して生活史を形成=熏習?
以上のようなシュッツの思想を唯識説と比較しよう。個人が生まれて以来の一切の経験や知識が沈殿化し、それが個人の生活史を形成していくというシュッツの考え方は、唯識の「現行(現実の行為)が、アーラヤ識中に熏習する」という考え方に対応する。また唯識説では、アーラヤ識に熏習された経験や行為の記憶は、沈殿して「種子」となり、再び新たな行為を生み出して行くという。それはちょうど、経験が沈殿化して「手許の知識の貯え」の一部となり、ふたたび現実を解釈し、経験するときの準拠枠組になるというシュッツの考え方に対応する。日常生活のなかで出会う具体的な問題状況は、個々人の「手許の知識の貯え」にしたがって知覚され、定式化されるのだ。こうして類型的に知覚され解釈された経験は、蓄積され「熏習」されて、再び「手許の知識の貯え」のなかに「種子」となることで、彼のその後の行為や経験の基礎となっていくのである。この点に関して唯識説とシュッツ思想は、構造的に類似している。
では唯識におけるアーラヤ識とマナ識の区別は、シュッツ思想の文脈のなかではどのように理解できるか。もちろんシュッツは、始めなき永遠の過去からの経験が蓄積されているという意味での「アーラヤ識」のようなものを想定してはいず、またたとえ誕生以来という意味でにせよ、これまでの一切の経験の蓄積を唯識派の「アーラヤ識」に対応するような概念を用いて自覚的に説明してはいない。しかし個人が生まれて以来の一切の経験や知識が沈殿化して生活史を形成していることを前提として議論を進めており、その意味でシュッツの発想は、一部分で「アーラヤ識」の思想に重なる。
◆マナ識と状況
次にマナ識について言えば、もちろんシュッツ思想のなかに深層の自己執着心である「マナ識」に対応する概念はない。にもかかわらず「手許の知識の貯え」や「関連性」の概念は、その機能面からマナ識の働きと深く関連している。たとえば「生活史的状況」や「手許の知識の貯え」は、私の利害関心との「関連性」において階層化されているという。つまり、はるかな過去から相続する生命活動としてのアーラヤ識の流れを、おのれの利害関心に応じて組織化、あるいは狭く限定化したものが「生活史的状況」であり「手許の知識の貯え」なのである。しかもこの組織化、限定化は無自覚的に行われる。無自覚的に機能する個人的な利害関心、すわわち深層のエゴイズム(=マナ識)を想定しなければ、「生活史的状況」や「手許の知識の貯え」の成立事情や構造を説明することはできない。 ところで「手許の知識の貯え」は、私の利害関心や特定の問題との「関連性」に応じて階層化された類型化の体系をなしていた。そして日常生活の世界の一切の事物や状況は、こうした「手許の知識の貯え」のなかから、私の利害関心と「関連性」の高い類型が呼び起こされることによって、それをフィルターとして構造化され、解釈される。この働きは、唯識派のいうマナ識による「第二能変」の働きと同じだ。シュッツの「手許の知識の貯え」の背後には、深層で働らく利害関心(マナ識の機能に当たる)が想定されている。すなわち我々は、深層の自己執着心によって「手許の知識の貯え」を形成し、それによって、現実を「能変」し、類型化し、仮構している。私は、つねになまの現実を見るのではなく、おのれの利害関心が反映した現実を見ているのだ。
4 アーラヤ識と大円鏡智
唯識仏教は、我々の倒錯した日常的な認識作用である八識を転じて、ありのままの真実を見る能力を得ることを目指す。詳しくは、八識のそれぞれを変化させて次の四種の知慧(四智)を得ることである。すなわち、前五識→成所作智、意識→妙観察智、マナ識→平等性智、アーラヤ識→大円鏡智の四智である。 まず大円鏡智とは、丸い鏡の玉のように瞬時に一切をあるがままに映しとる清浄な無分別智である。つぎに平等性智とは、円鏡のような無分別智に一切の事物がまったく平等に映し出されている姿を表現している。さらに妙観察智とは、円鏡がすべてを平等にしかもそれぞれ独自な姿をそのままに映しているように、個々の独自性(=妙)が確かに観察され感じ取られているという意味である。最後に成所作智とは、前五識が転換して、ひたすら衆生を救いとるために働くことをいう。 唯識の行者が見つめた利己心は、容易には克服できない深層に根差した執着心であったが、にもかかわらず唯識は、利己心が利他心へと変貌する可能性を視野から見失わず、瞑想に励み続けたのである。
《主要参考文献》
『大乗仏典15、世親論集』、長尾雅人他訳、中央公論社
『人類の知的遺産14、ヴァスバンドゥ』、三枝充悳著、講談社
『唯識十章』、多川俊映著、春秋社
『社会的現実の問題[1]・[2]』、アルフレッド・シュッツ著、渡辺光他訳、マルジュ社
『現象学的社会学の応用』アルフレッド・シュッツ著、桜井厚訳、お茶の水書房
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