2001年の8月10日から19日まで、八王子にあるグリーンヒル瞑想研究所のヴィパッサナー瞑想合宿に参加した。
その前に何冊かのヴィパッサナー瞑想に関する本を読んで、この瞑想なら本格的にやってみたいという気持ちになっていた。幸いこの夏、時間的にゆとりがあったのでインターネットで調べたところ、ほぼ同じ時期に日本テーラヴァーダ協会の熱海での合宿と、 このグリーンヒル瞑想研究所の合宿があることを知った。
7月末、最初にメールでグリーンヒル研究所にまだ申し込みできるかどうかを確認したところ、 キャンセル待ちだが可能性はあるとのお返事をいただいた。この時点で私はまだ、参加を決めていたわけではないのだが、追って参加可能との連絡をいただいたので、テーラヴァーダ協会のほうへの問い合わせをする間もなく、こちらへの参加を決めた。
後で聞くと、この合宿へ参加できたのは、かなり幸運が働いたような感じであった。
以下は、合宿後すぐにレスポンス・ダイアリーに連載したものを少し手直しして、そのまま掲載した。
グリーンヒル瞑想研究所については、以下のURLをご覧いただきたい。
http://www.satisati.jp/
◆瞑想合宿で感じたこと
最初にまず、この合宿でどんなことを感じ、何を学んだかをかんたんにまとめておく。
①グリーンヒル瞑想研究所長の地橋氏について。地橋氏のことを予めを知っていてこの瞑想合宿への参加を決めたわけではない。しかし一日瞑想会でお会いしたときに感じたことが、この合宿でさらに深く実感でき、結果的にこの合宿に参加できて非常によかったと思っている。
地橋氏は、瞑想修行にひたすら人生を賭けて来た人であり、しかもその体験は並々ならぬ深さであると言葉の節々から推察できる。にもかかわらず、てらいやけれんみが少しもなく、ご自身は瞑想の「インストラクター」に徹しておられるところが素晴らしい。
しかも営利や名利に関係のないところでヴィパッサナー瞑想の指導に情熱を燃やしていることが、10日間寝起きをともにしてますますよく分かった。 さらにヴィパッサナー瞑想を少しでも効果的に指導するご自身の方法を工夫・開発しており、その多くの指導例によって自信をもっておられる。
②ヴィパサナー瞑想では、妄想に捉われずに無視してただ何かに集中するのではない。心が妄想を起こせばその妄想に気づき「妄想」とサティするというところに特徴がある。そういう方法の素晴らしさに感銘を受けて、合宿に参加することを思いたったのだが、そのことの深い意味を地橋氏の指導や体験の中で思い知った。
③深いサマーディの体験とまでは行かなかったが、徐々に瞑想が深まって行き、非常に透明でクリアな意識を体験した。その過程では、眠気や妄想、イメージと戦ってしまったり、適切なサティが入って瞑想が進んだりという、いくつかのプロセスがあった。
④毎回毎回の食事と瞑想状態との関係について、地橋氏のこまやかで目の行き届いた指導によって実感的に学ぶことができた。
⑤大乗仏教的な考え方に共感を抱いている私にとって、ヴィパッサナー瞑想の背景となっているテーラワーダ仏教の世界観には納得できないものがあり、これが最後まで私の修行のブレーキになったかもしれない。両者の違いをどう捉えるかが、今後の私の大きな課題になりそうだ。
◆瞑想合宿の一日
10日間の瞑想合宿について、まずは一日のスケジュールを見る。
八王子の緑多い団地の一角にある研究所は、背後に森が広がり、きわめて静か。参加者9人が6畳の3部屋に3人ずつ寝泊りし、昼はそれぞれの部屋が座禅室や瞑想歩行用の部屋になる。
毎日ほぼ以下の日程で10日間の修行が行われた。食事は朝と昼の2回。
4:00 起床、部屋の掃除、洗面、瞑想
5:10 朝食
6:00 瞑想
7:30 ダンマトーク(所長の講話)
8:30 瞑想
11:30 昼食
12:30 瞑想
14:30 個人面接または瞑想
17:00 入浴または瞑想
21:30 寝具用意
22:00 消灯
希望者は夜座
以下、毎日の修行がどんな風に行われたか、特徴的なことを列挙する。
☆初日にオリエンテーションがあり、瞑想、サティの仕方、その他修行に必要なことが説明され、また実地の指導がある。
☆参加者同士の会話は一切許されない。これは文字通り完全に守られる。(どうしても必要な事務的な話を10日間の間に一言二言話してしまったことはあったが。)
☆修行は、座禅、歩行瞑想、立禅、作務、食事、喫茶などで、要するに一日のすべてを瞑想としてサティを入れていくことが要求される。座禅、歩行瞑想、喫茶などは自分自身で自由に組み合わせてよい。 たとえば座禅だけを集中して何時間もやらされるのは辛いが、ここでは自分の体の状態と相談しながら歩行瞑想等と組み合わせられたので、肉体的な苦痛はほとんどなかった。
☆一切の行動にサティを入れるということは、一切を非常にゆっくりと行うことである。たとえばトイレのドアの開け閉め、スイッチを押す行為まで、「(手を)挙げた、(ノブに)触れた、まわした、押した」などと、いちいち完璧にサティを入れながら、ゆっくり行うことが要求される。 経験者になればなるほど、ゆっくりと完璧にサティを入れながら行っているようであった。一日の一切の立ち居振舞が瞑想なのである。
☆ということは、食事もサティの訓練のためのものと位置付けられ、食べ物を噛む、飲み込むなどの一切にサティを入れ続け、集中を切らないことが要求された。私にとっては、この食事中のサティの訓練がとりわけ学びになり、好きであった。
☆一日のすべてにサティを入れることが要求されるということは、トイレの最中も入浴中も例外ではない。ただ風呂やトイレであまりゆっくりしすぎることはできないので、どうしてもサティは甘くなった。時にサティをすっかり忘れて便器に腰掛け妄想にふけることもあった。 喫茶コーナーで補給をするときも、もちろんもくもくと厳密にサティをした。私は、ここではどうしても食事中ほどの集中はできなかったが。
☆スケジュールに「個人面接」とあるが、これは地橋氏が参加者のひとりひとりを充分な時間をかけて毎日面接する時間である。なんと一人数十分から一時間もかけて、その日の自分の瞑想のレポートをし、地橋氏のアドバイスを受ける。 この面接のために地橋氏が費やす時間は、毎日7時間におよぶ。ここで助言を受け、励まされることによって参加者は10日間を乗り切っていく。 あとで書くが、私にとってもこの面接が、いくつかの気付きの大切なきっかけとなった。
☆私自身は、この一日のスケジュールがきついとは思わなかったが、しかしいろいろな人に聞くと、ミャンマーその他の国での一般的なリトリート、日本での他の瞑想合宿に比べると、はるかに厳密にしっかりやる充実した合宿であることは確かなようだ。たとえば無言行がそれほど厳密に守られないところが多いそうだ。
しかし、参加した9人とも最後までやり通し、それぞれに大きな収穫を得たという。 また、これまで多くの人がこの合宿に参加したが、脱落者は出ていないとのこと。お一人途中で帰った人がいたが、その後また続けているとのことだ。
◆妄想には妄想の働きがある
ということで、そろそろ私自身の体験に入っていきたい。
地橋氏に「妄想には妄想の働きがある。妄想は妄想でしっかり仕事をしてくれるので、サティによってしっかり妄想を気付いておくことが大切だ」と言う意味ことを個人面接で言われた。これに私はハッとし、深い感銘を受けて、それをきっかけにして瞑想がぐっと深まっていったと感じている。
瞑想で何かに集中し、浮かんできた来た妄想を払いのけるのは、結局妄想を抑圧することではないか、というのが私にとってずっと疑問だった。ところがヴィパサナー瞑想では心が妄想を起こせばその妄想に気づき「妄想」とサティするという。ヴィパッサナー瞑想に引かれた一つの理由はここにあった。
ところが合宿でいざ座禅をし、またそのつどの動作の感覚(センセーション)にサティしようとすると、限りなく思考・妄想が湧いて悩まされた。それは合宿に入って2日目、3日目のことだった。
4日目の朝、目覚めた瞬間に「要するにすべての思考にサティを入れればいいんだ」という思いが浮かんだ。思考が浮かんだらそのつど「‥‥と思った」あるいは「思考」などとサティを入れる。それだけのことじゃないか。よし、やってやろう。
そう思って座禅に入ると不思議に集中できた。思考にはすぐにサティが入り、妄想は少なくなった。しかし、5日目になると座禅の前半は集中はできるものの後半は眠気が襲い、再び妄想やイメージに囚われはじめた。腹の動きへの実感も遠くなった。もしかしたらこれは、ヴィパッサナー瞑想の背景となるテーラワーダ仏教に共感しているわけではない自分の意識がブレーキになっているためかと思った。
その日、先生との面接のなかで一つ大切が気付きがあった。先生は言われた、「ヴィパッサナー瞑想では、どんな妄想であろうと、妄想が出てそれにサティを入れること自体にも大切な意味がある。妄想には妄想の働きがある。妄想にサティを入れることによって気付きが深まっていく。集中も妄想もどちらも大切、フィフティフィフティなのだ」と。
私は、これにハッとした。「要するにすべての思考にサティを入れればいいんだ」と思ってがんばり始めたとき、私は知らず知らずのうちに思考や妄想を排除しようとしていたのだ。私がヴィパッサナー瞑想に引かれたのは、妄想にも意味があるとし気付き続けるという点であったのに、いつのまにか妄想を排除すべき対象にしてしまっていたのだ。この気付きが瞑想を一歩進めた。
◆瞑想が、そのまま自己観察である
さて、先生に「集中も妄想も、ともに大切なのだ。両方に同じ重みがあるのだ」と言われ、私は「そうんだったんだ、だからこそヴィパッサナー瞑想は素晴らしい」と、非常に感動した。
その後の座禅は、妄想が出てもそれを断ち切るためにサティを入れるのではなく、それに気付くためにサティを入れるとう感じにした。2・3度そんなことをするうちに妄想は消え、眠気も消えていった。
最後の夜座でも、湧き上がる妄想やイメージをやたらに排除しようとするのではなく、「これが出るのも私にとって大切なこと」と思って、「イメージ、イメージ」とサティを入れると、すぐに消え、腹の感覚への集中に戻れた。
たとえば腹のふくらみ、縮みという中心対象にサティを入れ続けることが、自動的に心の観察につながる。それが、方法としてしっかりと自覚的に確立されているとことがヴィパッサナー瞑想の素晴らしいところだ。禅の瞑想でも、同じようなことが起こるかもしれないが、方法的に自覚化されているわけではない。
中心となる感覚にサティを入れ続ければ、おのずと「妄想」が生じてくる。その妄想にもサティを入れることによって、自分の心の真実を見るチャンスが生まれるのだ。
先生が挙げていた例だが、中心対象になかなか集中できなかった人が、「あせり」→「いらいら」→「執着」→「高慢」と、次々自分の気持ちに気付きサティを入れていったという。最後に「高慢を認めていない」という自分に気付き、そうサティを入れたとき、あせりやイライラが消えていったという。
このように正確に自分の気持ちを言い当てるラベリングをすると、一瞬にして大きな変化が訪れることが多いようだ。 私は、この話にもとても感動した。これは、私が今までカウンセリングを中心とした心理療法で学んできこととまったく同じではないか。
◆ ピッタリくるラベリング
たとえばカウンセリング場面でクライエントは、カウンセラーの受容に支えられて、自分の言葉にならない内面をまさぐりながら、自分の気持ちにぴったりした言葉を探し表現しているともいえる。 自分の内面にぴったりした言葉で表現できた時、クライエントは変わっていく。私自身、カウンセリングの体験学習で自分を語りながら、自分の弱さ・幼さに適切な表現を与えられたとき、自分が変化していった経験をもつ。
地橋氏は、合宿中の講義(ダンマトーク)で、センセーション(感覚)へのサティでも、内面へのサティでも、自分が感じていることにぴったりくるラベリングをすることがいかに大切かを強調しておられた。
私は心理療法に関する経験から、ぴったりくるラベリングの大切さということが体感として分かるか感じがした。
河合隼雄氏が導入した箱庭療法にしても、その他絵画療法にしても、自分の心にぴったりの表現ができたときに、洞察が深まり変化していくといわれる。言葉による表現でも、それ以外の表現でも、そこで起こっていることは変わらない。 ともあれヴィパッサナー瞑想がラベリングによるサティという具体的な方法をもっていることは素晴らしい。妄想を邪魔者として排除するのではなく、それを生かすことによって瞑想と自己洞察を深めることができるのだ。
私は10年ほど前にテニスボールの自打球を右目にあて、そのとき出来た角膜の傷がふさがらなくなって再発性角膜糜爛と呼ばれる持病を持つ。最近そのためか右目の周辺の筋肉に時々痙攣が起こる。緊張があるなしにかかわらず起こるときは起こるが、意識すると起こる場合もある。もしや精神的な理由があるのかもしれないと思い、これにサティを入れて続けてもいいかとたずねた。
地橋氏の答えは、何かを探ろうとして故意に意識的にサティを入れていくのはヴィパッサナー瞑想の方法ではないというもの。気にならなければあえて入れる必要はない。気になって腹に集中できなければ、そのときはたとえば「ピクつき」とサティを入れればよい。そうやって気になったときだけサティを入れていれば、もし精神的な誘因もあるなら、ときに思いがけないイメージがともなうだろう。そのイメージにすかさずサティを入れる。そうやって洞察が得られる場合もある。
私はこの説明にもえらく感動してしまった。
◆その瞬間サティが入った
右目周辺の痙攣が気になって集中を乱すようなら「痙攣」とサティを入れる。そうやって事実に気付いておけば何か精神的な理由がある場合には、ふと関連するイメージが湧いてくる場合があるかもしれぬ。そうしたらまた「イメージ」とサティを入れる。イメージに感情が伴えば、またサティを入れる。それだけ。
無理に探る必要はない。自ずから起こったこと、自然に湧き上がったものにサティを入れていくだけで、必要なときに気付きは深まる。あるがままの生起にサティするだけ。この点に深い感銘を受けた。
集中は大切だが集中しようとすることで逆に際立つ妄想もまた意味がある。妄想を無理に断ち切るでもなく、無理して原因を探るのでもなく、沸き起こるままにただサティを入れることこそが、気付きへの道だ。そう受け取った。
合宿6日目・7日目・8日目と、座禅は非常に集中できる時と、あまりできない時が交差しつつ、徐々に良い瞑想が多くなっていった。サティが入ることで妄想やイメージが跡形もなく消えていくことも増えていった。
8日目の夕方の座禅中、黒いマントを身ににつけた巨大な男女に取り囲まれるイメージに囚われた。夢うつつの世界に入るか否かの瞬間に「イメージ」とサティが入った。その瞬間にイメージは消えた。
次にこの合宿のテーブルに豪華な夕食のご馳走が並んでいるイメージが出現した(腹は正直だ)。そのイメージの世界に入る込む直前に「ちがう、イメージ」とサティすると、イメージは消えていった。
最後はイメージは伴わず仕事関係の同僚の言葉が話しかけてきてその世界に入りかけたが、一瞬「「話、話」とサティが入って妄想は消えた。
この一連のサティのあとは、もうほとんど妄想は出ず腹の感覚に集中した。
ところが翌日の瞑想で、妄想はさらにたくみに人をたぶらかす事実を知った。地橋先生の講義のイメージを借りて妄想がはじまるのだ。地橋先生の講義だから思わず聞いてしまい、一瞬サティを忘れる。すると妄想の展開がはじまる。それでも昨日の経験が生きているのか、巻き込まれる瞬間にサティが入った。
こうして瞑想は深まっていった。 (続く)
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