1 三種の存在形態
大乗仏教の一派・瑜伽行唯識派を特徴づける三つの柱は、瑜伽行論と識論と三性説とであるという。瑜伽行とは、凡夫から覚者(ブッダ)になるための修行、迷いから悟りへの転換のプロセスであり、この行の実践を基礎としながら唯識派の理論は構成されていく。それゆえ唯識派の理論とは、いわば悟り(=自己超越)の理論である。
瞑想を中心とした瑜伽行を実践すると、次々と妄想がわき、煩悩が動きまわる。瞑想が深まるほど妄想は尽きず、幻覚すら出る。それは無意識に抑圧されたものが妄想・幻覚となって解放される過程だともいえる。その解放の果てに悟りがある。瞑想中のこうした体験が刺激となり意識の働きとは何かという考察が深まった。それが唯識派の「識論」であり、それは一種の意識論・認識論なのである。 「識」とは、妄想・煩悩であり、つまりは迷いの意識である。迷いの世界から悟りの世界への転換を目指すのが仏教だとすれば、識論は悟りの理論へと展開ざるをえない。 すなわち「転識得智」(識つまり迷いの意識を転じて悟りの知恵を得る)。この転換のプロセスが三性説として理論づけられる。そこでは三種の存在形態が想定される。すなわち第一に「仮構された存在形態」(遍計所執性)、第二に「他に依存する存在形態」(依他起性)、最後に「完成された存在形態」(円成実性)である。
◆ 「他に依存する存在形態=依他起性」
まず「他に依存する存在形態=依他起性」とは、あらゆるものが他に依存しており、他によって起こるという意味である。この世に独立自存・恒常不変の存在はどこにもなく、すべては他との関係において存在するということであり、仏陀以来の「縁起」と同様の思想である。本来、世界は「縁起」において成り立っているというのである。 慈円は「ひきよせてむすべは柴の庵にてとくればもとの野原なりけり」と詠んだという。ひっそりと野原にたっている柴の庵も、柴を結んで作ったから庵として存在するが、ひとたび結び目を解き放てば、そこには野原のほかは存在しない。材料となる木、柴、それを結ぶ縄がなければ庵もありえない。このようにこの世のすべてが何かを縁としてはじめて成立するというあり方を依他起性といい、縁起というのだ。
◆「仮構された存在形態=遍計所執性」
ところが人間の心(「識」)は、「これは素晴らしい庵だ」「これは俺の庵だ」等々、本来、縁起によって成り立つあらゆる対象に判断を下し分別する。しかも、その判断 は多少とも欲望によって歪められる。いずれは「もとの野原」に帰する庵であるのに執着によって固定化し、「自分だけの大切な庵」「死んでも誰にもやりたくない庵」にしてしまう。我々凡夫は、すべてを自分の利害関心というレンズを通して歪めて見ており、あるがままの真実の相が見えない。このように歪められた現実のあり方を「仮構された存在形態=遍計所執性」という。つまり、本来「縁起」的な在り方をしている世界(いずれはもとの野原に帰るはずの庵)が、執着によって固定化され、歪められてしまっているのが遍計所執の世界だ。 この遍計所執の世界が成り立つ構造を、心理学用語としての「自己」から捉え直そう。人は誰しも自分について何らかのイメージや観念をもつ。「私は、まともな人間だ」「私は小心だ」「こつこつやるタイプだ」等々、自分の性格や特質について言葉で様々に規定している。そんなふうにして意識された「自己概念」が統合されて、自分はだいたいこんな人間だという全体像が各自の脳裏に漠然とできあがっている。これが、人間性心理学を提唱した一人C・ロジャーズなどが広めた心理学用語としての「自己」だ。
「自己概念」は、つねに世間や他人との比較のうえに成立し、さらに他人と比較して自分をどう評価しているかという価値意識と結びついている。たとえば「私は小心だ」という意識は、「気が大きい人は素晴らしい」という価値 判断や「それに比べると自分は気が弱くてだめだ」という自己評価を伴うことが多い。「男」「夫」「父親」「部長」等といった社会的役割にも多くの場合、価値評価をともなった様々な「自己概念」が結び付く。「自分は、めめしい男だ(男らしくありたい)」「部下に信頼される部長だ(軽蔑される上司でありたくない)」等々。
こうしてそれぞれの「自己」は「世間一般」が期待する様々な社会的役割を基礎として、その期待や要求にうまく応えたり応えなかったりしつつ、とにかくその要求に対応する「自己」として形成される。その意味で「自己」は、社会構造に密着して成立する。 それゆえ「自己」とは、人間がこの社会とのかかわりのなかで無意識に編み上げてきた言語的な編み物である。人間は、複雑な社会関係の網の目のなかに「自己」を結節させ(野原に庵を結び)、位置付けることによってその社会に承認された「人間」となる。
そして大切なのは、「自己」という体制を通して世界を見るということと、言語的な枠組を通して世界を認識するということとは、実は同じ一つの事実の二側面だということだ。人間は言語を語る主体として、言語によって自らをあれこれに規定し、「自己」という一つの体制を形作っている。その意味で「自己」は言語の複合物である。
一方で「自己」は、自らの周囲に広がる世界(自らが何らかのかかわりを持つ一切の人間関係や 社会関係や個々の現実)を「自己」を中心に言語によって秩序づけ、構造化して把握する(=遍計所執性)。 人間は、言語的な枠組を通して現実を認識し、その言語的な現実との関係において「自己」を言語的に規定する。「私は、この会社の有能な部長だ」という自己概念は、「我社は、日本でもトップレベルの将来性ある会社だ」「日本は、世界をリードする経済大国だ」等々という現実認識とからみあい、それに支えられながら、何らかの自己評価をともなった一つの「自己意識」を成立させているだろう。
◆ 「完成された存在形態=円成実性」
しかし「自己」は、もともと実体のない「編み物」に過ぎないのだから、人間が成長し機が熟すれば自然にほころんで超えられていく可能性を秘めている。「私は一流会社の有能な部長だ」というような自己概念を中心とした自己体制が意味を失い崩れ去るときは、この自己体制を内外から支えていた一連の現実把握(=遍計所執性の世界)も意味を失い、新たな視点からの再把握を強いられるときではないのか。さらに人が何らかのしかたで限界状況に直面し、世間にあわせて形作られてきた「自己」が、それ自体として無意味となり非実体化されるとき、それに伴い「自己」を中心とした一切の言語的な認識の枠組(=遍計所執性)も全体として非実体化されるであろう。
「自己」が非実体化されたのに、現実の言語的な認識の枠組が非実体化されないということはありえない。何故なら「自己」も現実も 共に相互に関連しあいながら構成された、すぐれて言語的な形成物だからだ。「自己」が非実体化すれば、いままで特定の「自己」への執着をフィルターとして見ていた現実(=遍計所執性の世界)が、そうした執着から自由にありのままに見えてくる。同時に言語的な枠組も非実体化され、現実は言語的な枠組へのとらわれからも自由にありのままに見えてくる。 宗教的な覚醒体験や悟り体験を特徴づけるのはなによりもまずこの「自己の非実体化」=「自己の超越」という事実であろう。自己の超越とは、自己が自己の根源(真の自己)に徹することである。
大乗の『般若経典』においては空の思想が強調される。「空」には、倫理的・宗教的心構えとしての「無執着」という意味合いも込められてるが、深い瞑想体験にもとづいた高度に哲学的な認識にも発展した。深い瞑想中に「自己」という厚い壁が取り払われるとき、ことばによる固定的な枠組を越えて、世界のありのままの姿(真如)に接する。言語的な枠組によって実体化されない、世界の本来のありさま(不二平等の姿)に接する。そのような世界の姿が大乗仏教において「空」として表現された。自己が真の自己に徹するとき逆にすべてが自己となり「万物と我と一体、宇宙と我と不二」という世界が出現するのだ。 こうして「自己」が非実体化されると、いままで特定の 「自己」への執着や「自己」を中心とした言語的規定枠をフィルターとして見ていた現実(=遍計所執の世界)が、ありのままの真実の姿に見えてくる。歪められた仮構の世界、遍計所執の世界が、またもとのありのままの世界に帰るのである。そして、この過程こそが、三性説における三番目の「完成された存在形態=円成実性」にほかならない。対象や自我への執着が落ち、言語的な枠組も非実体化されるとき、遍計所執の世界が円成実性の世界に転じるのだ。
2 円成実性と至高体験
さて、人間性心理学を創始したアブラハム・マズローは、従来の心理学から視点を百八十度転換し、考え得るかぎり「完全に発展を遂げた人間」、精神的に健康で成熟した人々の研究を通して人間の本質や可能性を探ろうとした。人間の潜在的可能性を実現し、精神的に成熟した人々は「自己実現人」と呼ばれた。彼は、鈴木大拙やベンジャミン・フランクリン等を含む、多くの自己実現したと思われる人々を研究した。その研究を通して明らかにされたことの一つは、自己実現した人々の生活上の認知のあり方が、大多数の平均的な人々の日常的なそれと著しい相違を示しているということであった。平均的な人々の日常的な認識のあり方と違う、自己実現人の認識のあり方をマズローはB認識(B=存在、生命)と呼んだ。
B認識は、D認識(D=欠乏)と対比して論じられる。D認識においては、われわれの欲求が満足させれるか否か という、あくまでも利己的な見地から世界が組織され、自分の利害と関係のない特徴は無視されたり、軽視されたりする(=遍計所執性)。これに対しB認識とは「欲求を満足させるか挫折させるかの特質とは無関係に、つまり観察者にとっての価値あるいは影響ということを第一義的に考えないで、そのもののまともな生命の姿において対象を認識すること」(=円成実性)である。 自己実現する人間は、または平均人についても至高体験の際には、「自然がそのまま、それ自体のために存在するように見ることができ、決して人間の目的のための遊技場としては見ないのである。彼はそこに人間の意図を投影させないよう容易に差控えることができる。」「自己実現する人間の正常な知覚や、平均人の時折の至高体験にあっては、認知はどちらかといえば、自我超越的、自己忘却的で、無我であり得るということである。それは、不動、非人格的、無欲、無私で、求めずして超然たるものである。自我中心ではなく、むしろ対象中心的である(=円成実性)。」(括弧内筆者)
マズローの「自己実現人」や「至高体験」の研究は、古来、宗教的な文脈で語られてきた内容を、人間科学的な研究によって裏付けたとも言える。今後、これら両分野の比較研究がもっと進められ、深められるべきだろう。
《主要参考文献》
上山春平他編『仏教の思想』中公新書
マズロー著(上田吉一訳)『完全なる人間』誠信書房他
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