ニューエイジをめぐる対話(6) 「新霊性運動」の捉え方

NOBORU: 理性に対する感性の復権  さて、私はニューエイジ運動というより、もっと広く「新霊性運動」とでも呼ぶべき潮流を歴史的な視野の中で捉えてみたいのです。 近代科学の知は、あらゆるものを対象化し物質的・客観的な因果関係に還元して説明することで成立しています。しかし、その世界観にしたがう限り世界と自分との意味に満ちたつながりは考えにくいのです。それどころか自分の生命すらも、原理的には道端にころがる色あせた一片のプラスチック以上の意味はもたないと見るのです。  心の中で何かをごまかさない限り、人間はそういう世界観にがまんできないのではないでしょうか。 だからこそ私たちは、周囲の事物と、それらによって成り立つ世界を「宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいとう根源的な欲求」につき動かされて、さまざまな神話や宗教を形作ってきたといえるでしょう。 しかし科学の洗礼を受た私たちは、伝統的な宗教の教条化した教義を、おいそれとは受け入れがたくなっている。一方で近代科学的な、物質還元主義の世界観にも満たされない。その中で第三の知の在り方が模索されつつある。   そうした歴史的背景のもとに「新霊性運動」という言葉でくくれるような新たな潮流が生まれてきたと捉えることはできないでしょうか。 その特徴を端的に表現すれば、 1)私たち一人ひとりの人間が、魂を向上させ、霊性を開発していくことは、宇宙全体という視点から深い意味がある。 2)一人ひとりが霊性を向上させるのは、各自がそれぞれの責任において行うべきで、そのための組織を作ってそれに依存したり、それを維持拡大することを自己目的化する必要はない。一人ひとりが開かれた態度で霊性の開発に取り組めばよい。 3)宇宙全体の視点から霊性の向上にどんな意味があるかについても、各自がさまざまな人々や宗教や、科学の知見に学びつつ、開かれた態度で探求していけばよい。  このような特徴は、伝統的な宗教が固定的な教義をもった組織となることで、その教義と組織を守り広めるために他を否定し、攻撃して来たのとは好対照をなします。排他的・攻撃的な組織としての宗教という形をとらず、なおかつ「世界と生の宇宙論的な意味」を求め、霊性の向上を求める、大衆レベルにまで広がった関心・在り方、これは長い人類の歴史のなかでもまったく新しい方向を示しているのではないでしょうか。  たしかに、現実のニューエイジ運動、新霊性運動と呼ばれるものを見る限り、パラトラパ雅さんがつとに指摘するような様々な問題点がある。にもかかわらず、その基本的な方向性は、歴史的な視点から見ても大きな可能性をはらんでいるのではないか。だからこそ逆に、現実のこの潮流が持つ様々な問題については、厳しく批判していく必要があるのかも知れません。   以上の論点については、私もまだまだ自信をもって言えるようなことではなく、もしかしらとんでもない間違いを犯しているかも知れないので、パラトラパ雅さんの忌憚のないご意見をうかがいたいと思います。 Paratorapa:   基本的に新霊性運動は理性に対する感性の復権、内なるものを身体で感じ、人生に対して感動を得ること、これを大衆文化としてわかりやすく実践していこうとする動きだと理解しています。 正統な知的態度(科学、学問)というものは、主客の対立の中で内なる主観から外なる客観に注意の焦点を移し、これを理性でもって納得しようとする態度です。これに対し、神秘主義の大衆版ともいえる新霊性運動は、自己治癒能力、自己救済能力など自分の内側にも目を向け、魂全体で感動を覚えようとすることを重視する動きなのだと考えています。 理性的に納得するだけではなくて、自分の身をもって感じること、対象としての知を得ることではなくて、内なる何かに飛び込んで感得することが大事だというわけです。  このことは私も同意していますし、本来的には理性的態度と感性的態度のバランスを保っていけばよいのだと思います。 自己救済能力を引き出すには自己信頼、内省的態度、自己責任感が必要でしょう。また、単なる自己愛ではなく、自己受容に裏打ちされた他者受容、自然や宇宙とのつながりの確信も出てくるはずです。  一般の心理学データによれば、自己愛と他者受容は負の相関を持ちますが、自己受容と他者受容は正の相関を持っています。 私がいつも述べている問題は、この自己受容と自己愛のはき違えをしている人が多いのではないか。「あるがまま」と「わがまま」の混同が生じているのではないかと言うことです。  ニューエイジから新霊性運動と枠を広げて眺めるならば、こうした理性と感性のバランス、自己愛でなく自己受容を促進する方向を示している動きも見受けられるように思います。私が注意してみているのは、感性だけ先走って「思考停止」を起こしている。また、自己愛だけを増長し、世界がすべて自分の意のままに動いていると錯覚させるような傾向です。 トランスパーソナルも本来、こうした理性と感性の均衡、内側からの社会変革、前個的混乱から超個的成長へと歩むための意識の地図を提供する動きであり、その意味で新霊性運動と呼応し、連動しているものと思います。それだけに、感性先走り、自己愛、思考停止に対しては自ずと批判的になります。 NOBORU: 霊性の復権   確かに自己受容と他者受容とは、受容性の増大というひとつの事実の内と外での現われであり、「自分を愛する程度にしか他者を愛することもできない」というのは、誰にとっても変わらぬ真実なのでしょう。私たちは、内も外も同じひとつのフィルタで見る他ないのです。  そして受容性の増大の極限に世界との一体感や「自己」超越という体験があるのだとすれば、「あるがまま」と「わがまま」とを混同してしまうことは、一番大切な根っこの部分を見失っているということになるのでしょうね。 ニューエイジが、「感性先走り、自己愛、思考停止」を助長してしまう部分を持っているのだとしたら、それがいかに本質からかけ離れているか、きっちりと明確にしなければなりません。  確かに感性や身体性の復権は、新霊性運動やニューエイジの重要な要素だと思います。しかし同時に霊性、スピリチャリティーの復権こそが、この運動のもっとも核心にあるとは言えないでしょうか。 しかも、霊性の復権を、排他的な教義を核にして組織化された伝統宗教という枠から自由な、開かれた場所で浸透させつつあるところに新霊性運動の特徴があると思うのですが、この点はいかがでしょうか。 閉ざされた組織宗教という場や教義の中で霊性が語られ実践されることは人類の歴史の中で延々と続いてきましたが、開かれた知の探求の場で霊性が語られ、実践され始めたのは、有史以来のことだと言ってしまえば、それはこの潮流をあまりにも買いかぶりすぎた、とんでもない誤謬になるのでしょうか。 しかし、私はそうした視点から捉えてみたいという思いを捨て切れないのです。 パラトラパ雅さんに、この辺についての感想・ご意見をお聞きできればと思っています。 Paratorapa:   まず、霊性について現時点での私の見解を示しておきます。 以下は、私がまとめた小論からの抜粋です。Noboruさんのお考えとの異同を明らかにするためにアップしておきます。  霊性(spirituality)とはいったい何であろうか。私は,意識の拡張に伴う人間の非日常的なリアリティの顕れ、つまり霊的,超常的,超個的,神秘的な体験の特質全般を霊性であると考えている。これらはいずれも、自我や個人性のレベルを超えた意識領域の現れである。ただし、霊性に目覚めていくことは本人にとって建設的な成長をもたらすこともあるし,逆に破壊的,自滅的な結果をもたらすこともある。  これまでの西洋の物質科学はおよそいかなる霊性というものについても扱ってはこなかったし、実際、霊性を科学的な世界観には不向きなものだと考えている。しかし、最近の意識研究は、霊性が人間の魂(psyche)や物事の普遍的な枠組に関わる自然で正当な次元であることを明らかにしている。 トランスパーソナル心理学者のグロフ(2000)は「未来の心理学-現代の意識研究からの学び」という著書の中で、霊性をリアリティ(現実)の非尋常な次元にかかわる直接体験に基づいていると述べている。 魂のより深いレベルから生じてくる霊性体験のことを深層心理学者ユングはルドルフ・オットーの言葉から引用してヌミノース的性質(numinosity)と呼んだ。ヌミノース(numinous)とは、神聖で,神々しく,尋常ではないと感じられる体験をさす言葉である。これはまた、宗教的、神秘的、呪術的、あるいは神聖体験といった言葉と同じような意味をもつ概念である。  グロフはさらに、霊性を宗教と区別してとらえていく枠組を提案している。霊性は何も特別な場所や神とのコンタクトを媒介するために選ばれた人を必要とはしない。それに霊的な直感は教会や寺院に通うことを必要ともしない。自分の身体と自然との交わりを通じて、だれでもリアリティの神聖な次元を体験することができる。だから、説教師の言葉を聞く代わりに、自分よりも内的な体験の進んでいる求道者仲間によるサポートや教師の指導が必要なのだとグロフは主張している。  いずれにしても、霊性は個人と宇宙との関係を特徴づける何かであり,それは必ずしも形式や儀礼,瞑想などを必要とはしない。本人の意志や意図とは無関係に発生している面もあり、「向こうの方」から突発的にやってくる性質も持っている。それに、日常生活の中でとても感動したり,普段の営みの中で聖なるものに遭遇するような体験も霊性の一種と考えられる。  霊性と宗教は必ずしも同一ではないと私も考えています。宗教は教義、儀礼、形式がついてまわる組織的な活動です。それによって霊性が発露する可能性もありますが、何も変化しない場合もあります。  新霊性運動は、既成の宗教に比べて個人の自律性を重んじる側面があり、組織による縛りが緩やかであると言われています。しかし、その反面、霊性の開発について「何でもあり」、「すべてよし」的な傾向も見られます。その人なりの霊性の個性化と言うのでしょうか。  私はすべてをよしとは考えていません。そこには一定のモラルやルールも必要ですし、社会的な責任も自覚する必要があります。すべてよしとした果てに、オウムなどの破壊的カルトの暴走があったわけですから。  純粋に個人だけで活動している人っているのでしょうか?多くは小サークル、小集団の形態をとっているように思います。また、霊性開発にはネットワーク・サポートというか、単独で取り組むというよりも、同人からの支援を得ていたり、何らかの指導を受けていると思います。 ということは、これも社会集団の枠組みの中で起こっている出来事ですから、集団心理の影響を受けるはずというのが私の見方です。  NOBORU:新霊性運動の二側面  霊性という言葉の概念理解については、パラトラパ雅さんが書かれたものと大きな違いはないと思いました。私は、霊性の開発、進化というふうに、人間の心理的な成長という視点に力点をおいてこの言葉を理解しています。その力点と置き方は、パラトラパさんと多少の違いがあるかも知れません。誰しもが日常的に保持している「自己」という枠組みからかぎりなく自由になっていく(意識の拡張)ところに人間の心理的な成長があり、「自己」を超た次元に触れるとき霊性が目覚める、というようなニュアンスです。霊性という語には、もちろん肉体も含めた物質的な次元に対し、それを超た次元という意味も含まれています。人間は、成長すればするほど、この霊的な次元にも開かれていくことが含意されると思います。  ニューエイジ、あるいはもう少し広く新霊性運動といういう場合には、さらに広い意味が含まれると思っています。その広い意味をも含めて考えることが重要になってくると考えます。  その第一の意味は、パラトラパさんが書いたように「意識の拡張に伴う人間の非日常的なリアリティの顕れ、つまり霊的,超常的,超個的,神秘的な体験の特質全般」という側面です。新霊性運動は、そうした体験を得るための様々な行やセラピーなどへの特定宗教・宗派を超た関心となって現われていると思います。  第二の意味は、物質的な次元を超た霊的な世界への関心、いわゆる「死後の世界」や、「生まれ変わり」への宗教・宗派を超た関心の拡がりという側面だと思っています。自分の霊性を開発するための修行やセラピーには関心がない、あるいは関心があっても実際に行うまではしない。しかし、物質的な次元を超た世界には高い関心があり、例えばその方面の情報を本などで積極的に得ようとする人々。ニューエイジや新霊性運動が提示する、大まかな世界観に強い共感を抱いて、それに支えを見いだしている人々。そうした人々の増加が、この潮流の拡がりとなっていると思います。  ですから、ニューエイジや新霊性運動を考えるときには、第二の側面も視野に入れて、いやむしろそちらをも同等に重視して考えていかなければならないと思います。この両側面を含めてこの潮流の歴史的な意味を考えて見たいのです。  ところで、パラトラパさんにひとつ質問ですが、「しかし、その反面、霊性の開発について「何でもあり」、「すべてよし」的な傾向も見られます」とおっしゃた時の、「何でもあり」、「すべてよし」的な傾向とは、具体的にはどのようなことを指しているのでしょうか。かんたんに教えていただければ幸いせす。 Paratorapa:  たとえば、社会的公正さ、モラルの問題です。新霊性運動が曲がりなりにも「運動」というからには、社会性をもっているはずです。前提として、社会の側にも異質なものや多様なものを認め、受け入れようとする寛容さも大切だとは思いますが、新霊性運動が不特定多数の人々を巻き込む力をもっているからには、すでに述べたような霊的防衛や攻撃的霊性を克服した、成熟した運動になっていかなければならないと思います。  霊的覚醒や霊性の向上をめざす上で、さまざまなアプローチや方法論があると思います。が、それが利権や商業主義と絡んでいたり、経営思想に取り入れられたり、自我の現実原則を根底にした動きであるとしたら、何をしてもよいとは言えないと思います。ビジネス、商売としてやるなとはいっていません。やるなら、それにルールとモラルもついてくることを忘れないようにしていただきたいということです。   また、効用の曖昧なセミナー、ワークショップ、実際以上の効果のみを宣伝して、失敗例、副作用等についてのデータを隠蔽するセラピーやヒーリングも公正さに欠けると言えます。これらはいずれも主催者のモラルにかかわる問題です。 NOBORU:  パラトラパ雅さんが、「何でもあり」「すべてよし」的な傾向と言ったのは、ルールやモラル、公正さを欠いた、儲けるためには何でもやるようなニューエイジ商法のことを指しているのですね。私は、その辺の実態には詳しくはないのですが、確かにあくどい儲け主義がはびこっているのでしょうね。そういう現実があるということは事実だと思います。 Paratorapa:霊性開発について  超宗派的な霊性への関心の広がりは、これが運動として成立するためには必要なことだと思いますが、「死後の世界」や「生まれ変わり」に関する情報の氾らんが果たして霊性の開発につながっているかどうか、私には納得できない面もあります。  1つには死を美化して、現世からの逃避につながる可能性、2つには自分の身の回りので起こる出来事をすべて「過去生のカルマ」のせいにして、現実否認を起こす可能性。 取っかかりとして、「魂の不滅性」に関する情報源にアクセスすること自体は、主観的な幸福感を強める可能性はあります。しかし、その反面自己慰撫や現実逃避的な作用しかもたらさない場合もあります。 これは情報を受け取る側のパーソナリティとも関係してくる問題です。  筑波大学の社会心理学者松井豊氏(2001)が行った研究によれば、「占い」、「死後の世界、生まれ変わり」、「UFO、超能力」を信奉する人は、しない人に比べて、神経症的傾向が強く、賞賛獲得欲求も強いという結果が出ています。すなわち、信奉者は不安を感じやすく、周囲の人から注目を浴びたり、目立つことを望む傾向が認められます。この傾向は20-30代の人々に限って見られる特徴でした。不安の解消、自己の存在感のアピールとして新霊性運動の信念を取り入れているということでしょう。  霊性開発は難しく考えるものではなく、自然の状態になることで、だれでもその本質を実感できるようになるものだと思います。修行や訓練などの技法や道具に必ずしもこだわることもなく、「自然」、「あるがまま」でいられたら体感できるはずです。ただ、現代人にとっては、出発点からしてその自然な状態からの解離が甚だしくなっているので、困難を覚えるのかもしれませんね。   霊性開発について少し私の現時点での考えを述べておきます。自分の心の内側の開発の道のりについては 0.外部からの情報の取り入れによる知的理解 1.実践的活動に対するコミットメント 2.より進んだ実践 3.黙想的環境での生活 4.日常性の中での非日常体験の根づけ 5.完全な黙想生活  というようなステップを踏むような印象を持っています。 Noboruさんのおっしゃる第2の側面というのは、ステップ0の入り口の手前に位置づけられるわけであり、そこから先に進むには何らかの実践を伴う体験的理解が必要となります。  禅宗ではかつては激しい修行の後で体得したものを、いちど世間に戻って日常生活をする中で根付かせ、実践する行もあったと聞いています。そこからまた黙想をきわめてステップ5に至るというのです。 日常性と非日常性の行ったり来たりが自然にできないと、バランスのとれた霊性は開花しない。日常性にどっぷり浸かっているだけでは内側の声は感じられないほど、現代人の心の乖離は激しくなっているし、かといって非日常性に飲み込まれてしまっても精神を病む危険性が伴います。 現代は外側の生活がとても便利になっている分だけ、内側が貧困になっている。これを回復するには、隠遁生活をして外部からの情報を一切遮断し、ひたすら行を積むか、古代人のように自然に取り囲まれた中で自給自足の生活を送るかです。 しかし、外側の生活を犠牲にするには失うものも多すぎるとすれば、通常の生活をしながらも実践的活動にコミットしていく新霊性運動的なアプローチもある。 ただ、体験をもっと深め、内側を掘り下げるには、より進んだ行、訓練というものも必要で、もし霊性の世界で暮らしたいと思うのなら、ある程度通常の生活から離れた環境に移行しないとステップアップも生じてこないのではないかと思うわけです。 この点についてNoboruさんのお考えをうかがうことができれば幸いです。

対話(7)「新霊性運動」の歴史的な意味へ 

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