ここでのNoboruの最初の発言は、パラパトラ雅さんとの対話としてではなく、 掲示板の中の一般の発言であったが、 パラトラパさんの「この問題もテーマにあげよう」との提案で、 しばしこのこの問題で対話が続いた。
NOBORU: 今『カルト資本主義』斎藤貴男(文芸春秋社、1997年)という本を読んでいます。 ソニーの超能力研究や、京セラの稲盛和夫、EMの比嘉照夫、経営コンサルタントの船井幸雄などが、 オカルト批判の立場から俎上にのせられています。 私が全く知らなかった内情が報告されたりしていてとても面白いです。もちろん著者の固定観念・偏見のたぐいによって本質的なところが見えていなかったり、 歪められたりしているのも感じますが これがもし本当だったら私が間違っていたのではないかと思えるような部分も多いです。 その辺をどうやって見極めていくか。実に刺激的です。 たとえば、私の読書ノートから第3章を紹介しています。 第3章「京セラ『稲盛和夫』という呪術師」
私は、稲盛和夫についてはほとんど知らない。梅原猛との対談集を読んだ記憶があるくらいだがあまり記憶に残っていない。したがって自分で判断する材料は持たないのだが、その状態でこの章を読むと、稲盛はかなり信頼できない人物であるとの印象が伝わってくる。 「私に言わせれば、“稲盛哲学”ないし、“京セラフィロソフィー”は、その実どこまでも人間を企業に縛りつけ、奉仕させるために内面から操り、究極の奴隷とする呪術的便法に過ぎない。‥‥世界経済は大競争時代に突入し、企業サバイバルのためにはより生産性を高めたい。そのためには、見返りを求めない従業員の忠誠を涵養したい。‥‥何もかも肯定する生き方こそ人生の真理だと説くニューエイジ思想こそ最高の方法論になり得ると、稲盛は判断しているようだ。経営者たちはそのことを本能的に感じ取っているから、彼を手放しで支持するのである。」(P155)
稲盛が、従業員の忠誠を涵養するための方法論として「何もかも肯定する生き方こそ人生の真理だと説くニューエイジ思想」を利用しているのかどうか、私には判断できないのだが、上のような思想が、経営のための都合のよい方法論として利用される危険が充分にあることは認めなければならない。 すべてに感謝し、すべての肯定的に受け止める姿勢は、個人の心の在り方として素晴らしいものだと私は思う。それはこころの受容性の増大を意味し、人間の心理的成長とは、自分の内と外の現実をどれだけ受容していけるかにかかっているのだと思う。 しかし、それによって社会の矛盾や悪を批判し、改革しようとする姿勢までもが失われてしまうのだとしたら、それも絶対に間違っていると思う。 この辺の問題を追求することはニューエイジ思想の根本にかかわると思うので、これからじっくり考えていきたい。
Paratorapa: この問題も議論のテーマの1つにあげましょうか? NOBORU: いいですね。ぜひ。私は、あまり詳しくありませんが。 Paratorapa: 確か文芸春秋1997年5月号だったと思いますが(宮崎哲弥「船井幸雄印オカルト本の”英雄”たち」Pp.342-358.) 、私も「船井人脈図」の中に実名を入れられたことがあり,大変不愉快な思いをしたことがあります。実際は何らの関係もないにも関わらずです。 ニューエイジ思想は企業経営とも関係があります。
NOBORU: そうでしたか。人脈では無関係として、パラトラパさんは船井幸雄をどのようにご覧になっていますか。ちょっと興味があります。私は、たいへん好きでよく読んでいました。 Paratorapa: 私は何歩も引いて見ています。こうした領域の研究者として活動していくためには,むしろ障害さえ出てくると思っていますので。 ただ,広告塔としての人材の起用にしても,商売人としては目の付け所がよいというか,トレンドを読む力があるというか,いずれにしても商才は抜群でしょう。 ついでに「船井人脈」で,私は「ニューエイジ」の輪廻転生派として福島大の飯田史彦氏とつながっているように描かれていたのですが,全く面識もありませんし,議論をしたこともありません。それに,彼と私とでは大きなスタンスの違いがあります。この辺は世間的にもかなり誤解をされているようなので,この場を借りて全く違うと述べておきます。輪廻転生,霊魂不滅は科学的に実証されたなどと,私は言うつもりはありません。私の著書をかなり曲解して彼の自著で引用されているようです。 さて,市場原理でニューエイジを見ると,潜在的な需要はあるわけで,経営者もこの不況の中で先を読みきるため,経営を立て直すための哲学,思想を欲しているわけです。それがニューエイジであれ,ニューサイエンスであれ,何でもありです。五里霧中の迷える経営者たちに福音?を与えたという意味で影響力はあったでしょうが,今はどうなんでしょう。ブームにかげりが見えてくると,その次のネタを掘り起こして,新しいブームを仕掛けるしたたかさはあるとは思いますが,要するに儲かるかどうかが行動規範になっているわけであり,それが輪廻転生であれ,ポジティブ・シンキングであれ,何でもいいわけです。
基本的にはニューエイジも商売として成り立つかどうかで動いている面は否定できません。これは一種のサービス業だと見ることもできます。そこで,費用対効果の問題も出てきます。資本主義経済の枠組みの中で活動する限り,業界内の競争も出てきますし,いかにして儲けるかを考えるようになります。そこにモラルと社会的責任も出てきます。効用の曖昧なもの,霊的防衛や攻撃的霊性を助長するスキーマの刷り込み,参加者に対する責任体制の不明瞭さなど,いつまでも何でもありの状況にはとどまらず,やがて自然淘汰も起こるでしょう。サービスの消費者も本物と偽物の区別をする賢明さを養う必要もあるでしょう。 私は商売をするな,と言うつもりはありません。適正な手続きを踏んで,公正な商行為をする限りは,社会的な問題も出てきませんから。
NOBORU: ここで読者のために一言。精神世界への関心やニューエイジ運動のあり方を内側がら問い直す議論をパラトラパさんとともに行っています。 今、次の4点のうちの2)を話し合っています。
1)内実を伴わない権威主義的な傾向に陥っていないか。
2)実証的に確認していくという姿勢を失っていないか。
3)すべてに対して開かれた在り方を失っていないか。
4)個としても集団としても自己肥大化するエゴイズムに陥っていないか。
私は「2)実証的に確認していくという姿勢を失っていないか 」と言うばあい、実証的であるということを次のような意味で使いたいと思います。事実を尊重し、可能なかぎり多くの事実を集めて、それらを偏見のない目で観察する。それを可能な限り統計的に処理する。 その上で、それらをもっとも整合的、包括的に説明しうる仮説を立てる。それら仮説はつねに事実に照らし合わせて検証され、仮説に合わない事実が出て来たら仮説を考え直す。そのようにして、できるだけ事実を的確に説明する仮説へと修正していく。それを繰り返していく。集められた事実の前に仮説はつねに修正可能なもの、事実に開かれたものでなければならないのです。
この場合、「偏見のない目」とは主に二つの意味があります。
1)宗教のある種の教義のような批判を許さない固定化された考え方によって事実を歪ず、ドグマから自由に事実を見る目。
2)近代科学の考え方のような、すべてを物質に還元して説明できるという特定の世界観から自由に事実を見る目。
たとえば「生まれ変わり」についても、個人的にそれを信じる信じないは別として、パラトラパ雅さんが主張したような厳しさで実証性を問題にすることは、非常に大切なことだと思います。 いつ誰がやっても同じ結果が得られるという再現性を伴った厳密な科学的実験による検証は、もちろん大切でしょう。 しかし、たとえば気や超能力は、特定の人間の能力に依存する場合が多いので、厳密な意味で同じ結果を再現できない場合が多いのです。 しかし「だからそれは存在しない」と切り捨てるのだとすれば、それは科学の横暴というものです。
『カルト資本主義』という本で日本のニューエイジ運動を批判した斎藤氏が、近代科学の世界観を大前提にして、それにそぐわないものをすべてオカルトとしてなで切りにしていったのも、やはり「偏見のない目」からは遠いと思いました。彼のニューエイジ批判は、学ぶべきところも多いので、後に触れます。 Paratorapa: 偏見は社会心理的なプロセスとしてとらえることができるものです。 基本的にそれは知識の欠如から来る食わず嫌い,そして表面的な理解と予断に基づく抵抗です。 「偏見のない目」の1)の宗教(団体)のバイアスは,それがきわめて情緒的な信念であるがゆえに起こりますし,また集団心理として我が神のみ尊しとする身びいき性から生じます。 2)も基本的には”フラットランド”とウィルバーが呼ぶ狭量で平坦な世界観からくるゆがみであり,これもドグマの一種です。 私は自然科学的なリアリティだけが唯一の真実であるとは考えていません。個人的,社会的なリアリティも同等に尊重されるべきであるし,それらのバランスを考えていきたいと思っています。 斎藤氏の本は読んでいないので何とも言えない部分もありますが,Noboruさんが紹介されている内容から言えば,結局は外側からの評論の域にとどまっているものであり,合理的近代を超えた部分で議論をするトランスパーソナルの立場から見ると,そもそも議論の土俵が違うような気がします。これはウィルバーの言う”カテゴリー・エラー”であり,議論が最初からかみ合うはずもないのです。 ただし,ニューエイジ批判については,どのような問題をあげているのか,今少し斎藤氏の指摘を要約していただけるとありがたいです。
NOBORU: 『カルト資本主義』の斎藤氏は、ニューエイジの特徴を 「オカルト的な神秘主義を価値観する。西洋近代文明を否定する態度を示し、そのアンチテーゼとしてのエコロジーを主張する。個人を軽視し、全体の調和を重視する。情緒的・感覚的であり、論理的・合理的でない」 などの傾向として捉えています。 これらが精確にニューエイジ運動に当てはまるとは思いませんが、一部にこれに類する傾向があることは確かでしょう。個人主義や科学万能主義へのアンチテーゼであるがゆえに、全体主義的で、科学的な合理性の放棄につながりやすいというのです。
Paratorapa: 確かに新霊性運動(ニューエイジ;精神世界)が合理的近代に対するカウンター・カルチャーであるからには,指摘されるような特性も出て参りますね。 ただ,私の理解では個人を軽視している,というのはどうかなと思います。むしろ,個人の感覚,実感の重視,個人を出発点とする社会変革の意識という特性がニューエイジ,精神世界にはあります。それが従来型の新宗教の組織中心性とは異なる点だと思うのです。
NOBORU: 斎藤氏によれば、従業員が、無我執で、すべてを必要必然ベストと考えてポジティブシンキングで働いてくれれば生産性が上がるから、管理する側は、積極的にニューエイジ思想を利用する。しかもに日本の場合は、伝統的な集団主義や和の思想、天皇制を背景とした没我の思想が、ニューエイジを受け入れる無意識の土壌となって、ますます管理をしやすくしている。 これは一面で当っているかも知れないと感じます。まさに個を超て成長していこうとする新霊性運動が、権威主義的な支配-隷属関係(サドーマゾヒズム的な関係)にからめとられて、「前個」(個人の確立以前)の集団主義に変質してしまう危険性を秘めているのです。 戦前・戦中の仏教者が、「無我とは滅私奉公だ」と唱えた時と同じ構造が、もう少し形を変えて、というよりかなり見えにくい形で私たちの社会の中で根強く生きながらえているのです。 しかし、何回も言ってきたように「新霊性運動」とは、個人以前の全体や集団に埋没することではなく、個人的な自我の限界を超えて、成長することを目指しているはずなのです。 この道を少しでもはっきりさせるためにこそ、実証性を重んずる態度、開かれた態度、個としてのあるいは集団としてのエゴイズムの自覚的な乗り越えの姿勢などがますます大切なのだと思います。
Paratorapa: 経営理念としてニューエイジ的な思想を取り入れるならば,それは組織中心の宗教様の信念体系(教義)になるわけであり,滅私奉公的なマインド・コントロール装置として従業員の信念の刷り込み,主体性の剥奪につながるでしょう。それは経営者の権威を袈裟に着た支配-隷属関係 の構造を何ら変えるものではない。管理統制のための思想をニューエイジ系のものにすげ替えただけです。 ニューエイジ自体がモザイクであり,一貫性,整合性をもった思想ではありません。十分に熟成され,成熟していない。一つ間違えば,前個的な自己愛の増幅につながるということは,ウィルバーも批判しているところです。 都合のよいところだけをつまみ食いして,経営戦略に組み入れるのも,経営者自体の見識の浅薄さを意味しているのではないでしょうか。マスローが晩年に提案した「Z理論」では,超越的な自己実現者による組織経営のあり方についてモデルが出ています。全体主義的,前個的埋没ではなく,かといって単なる自己実現で終わらない,別のタイプの組織運営のあり方が提案されています。 無批判的に外からの情報を鵜呑みにする,合理的な思考を放棄する,実証的な姿勢と開かれた態度を失うことは,妄想と妄言を膨らませるだけであると思います。理性と感性のバランスこそが重要であると思います。
NOBORU: 斎藤氏のニューエイジ批判は、ご指摘の通り「外側からの評論の域にとどまっているものであり,合理的近代を超えた部分で議論をするトランスパーソナルの立場から見ると,そもそも議論の土俵が違う」ということに尽きるのです。 私たちが、この対話で行おうとしているような、内側からの批判とはまったく違います。近代科学的な世界観から一歩も外に出ようとせず、その基準に合わないものはすべていかがわしい「オカルト」として批判の対象となるのです。その基準は、疑うべからざる大前提のようでした。「気」も、生まれ変わりも、その他一切のニューエイジ的思考も、その基準から判断して「オカルト」なのです。
Paratorapa: そのいかがわしさを排除し、不合理なるものを抑圧してできている社会が構造的な疲弊をきたしており、さまざまな問題を起こしているという見方もできます。 NOBORU: 精神世界への関心やニューエイジ運動と呼ばれるものが、社会の構造的な病弊から生ずるウミのようなものなのか、それとも病弊を癒すエネルギーを秘めているのか、その辺をどう捉えるかが、評価の分かれ目になるのでしょう。もちろんウミのような部分もあるのでしょうが、私自身は、病弊を癒すエネルギーになる部分に着目して行きたいです。 さて、日本のニューエイジ的な運動を、彼は「カルト資本主義」と命名します。基本的にそれが、経営者等、指導的な立場の人たちによって広められ、方便として利用されているからだというのです。 彼自身の言葉で「カルト資本主義」の特徴を列挙します。
1)オカルト的な神秘主義を基本的な価値観とする。
2)西洋近代文明を否定する態度を示し、そのアンチテーゼとしてのエコロジーを主張する。
3)個人を軽視し、全体の調和を重視する。
4)情緒的・感覚的であり、論理的・合理的でない。
5)バブル崩壊後、急速に台頭してきた。
6)企業経営者や官僚、保守党政治家ら、現実社会の指導者層に属する人々が中心的な役割を担っている。その支持者たちも、一般に“エリート”と目される高学歴の人々が多い。
7)“無我の境地”“ポジティブシンキング”など、個々人の生活信条に属する考え方が、普遍的な真理として扱われる。
8)現世での成功、とりわけ経済的な利益の追求を肯定する。むしろ、ことさらに重んじる。
9)ナチズムにも酷似した、優生学的な思想傾向が見られる。
10)学歴などに対して、普通以上に権威主義的なところがある。
11)民族主義的である。
以上です。あたっていない部分もあるし、一部の傾向をニューエイジ全体に広げて理解する間違いを犯している部分もあると思います。とくに8)以下。しかし、丹念な取材を通して個々の内部事情を明らかにしているところは評価できます。
Paratorapa: 十把一絡げ的な扱いは著者の偏見と認識不足から来るものでしょうし、 少々強引な結びつけ方をしているようにも感じました。 以前、Noboruさんの日記(本サイトのダイアリー:Noboru注)にもあげてらっしゃった放射医学総合研究所の気の研究や国会議員の気の研究会については、私もある程度は聞いています。 前者は放医研の山本研究室が一貫して気功師を対象に実験的な研究を行っているもので、動作の遠隔的同調などのデータを先月の葉山町でのフォーラムでも報告されています。むしろ、自然科学的な手続きをきっちり守り、暗示、感覚的手がかりなどの影響を排除し、二重盲検法などを使って計測を行っているわけであり、きわめてオーソドックスな「科学的研究」であります。 後者は国会議員の趣味として健康法として、気功を習ってみたい、勉強したいという程度のものであり、何やら密談しているわけではありません。 フォーラムの印象記にも書いたように、今後は潜在能力に関する学術的研究をおこなう機関、大学も設置されるようになると思います。 NOBORU: 著者の一番の批判は、この運動が国家や大企業の指導層による誘導によって「共通の価値観」にされてしまうこと。管理の手段とされ、方便として利用されて、大規模な形で「洗脳」が行われてしまうことであるようです。
確かにニューエイジ運動の中の一面には、このように利用されている部分があるだろうと思います。そして、そうした部分には絶えず注意を払い、批判すべきところは批判して行くことが非常に大切です。この対話も、そうした批判のひとつとして始められたわけですし。
Paratorapa: この運動が管理の手段とされているという点については、 一部の経営者はそうなのかもしれませんが、私の印象ではニューエイジの主流は基本的には個人単位の活動であり、社会的な枠組みから外れたり、自信がなかったり、精神的にもろかったり、いずれにしても社会的不適応感の強い人々が多いのではないか、という印象を持っています。 斎藤氏は資本主義という経済的な側面に着目して、ビジネスとしてのニューエイジに焦点を当てているようで、それはそれで言い得ている部分もあると思います。しかし、外部からの観察の限界かな、ニューエイジジャー個々人の心性にまでは踏み込んでいないような気もします。 私が以前行った調査では、ニューエイジに通じる信念(心霊、超常的能力など)を持っている大学生はそれを否定する学生よりも、性格的には社会的不適応の指標の得点が高かったです。 他方で、伝統的価値に対して抵抗を示し、身近な事象への関心・社会的事象への無関心(結局、人のことは自分とは関係のないことだ、自分が損をしてまで、皆のためにつくすのはバカげたことだ、他人のために時間をとられたくない、ボランティア活動や奉仕活動には興味や関心はない、自分のことに精一杯で、他人のことを考えるだけの余裕がない)という傾向は弱かったのです。 これをまとめるならば、脆弱だが優しい、静かな抵抗者としてのニューエイジャーのイメージが出てきます。
NOBORU: 社会が構造的に病んでいるからこそ、そういう社会に不適応をおこす健全さをもった若者たち、と見ることもできると思います。健全な社会からの「逃避」と、病んだ社会からの「逃避」とでは、同じ言葉でもずいぶん意味合いは違うのでしょう。
Paratorapa: おっしゃるとおりだと思います。 社会の中に居場所を見いだせない若者がいるということは、昨今の青少年の問題行動の頻発にも通じることだと思います。 反社会的行動として暴発することにありますし、引きこもり、不登校あどの社会に背を向ける行動として生じることもあります。 そして「社会外」に飛び出ていくパターンもあるわけです。 「霊的モラトリアム」とでも言えばよいでしょうか。積極的な求道としてのモラトリアムもあるでしょうし、拡散したアイデンティティのまま、霊的プー太郎としてフワフワしているさすらい人もいるでしょう。 ただし、自我の確立という視点から見れば、それを延期しているわけですから、いずれも「前個」状態ということになります。また、社会の中にいることを基準に考えれば、いずれも社会外にいるドロップアウト、逃避に見えるでしょう。 それが単なる逃避、消極的厭世ではなく、建設的な意味があるとしたら、これもライフスタイルの1つと見なすことはできます。 しかし、一生そのままの生き方ってできるのかどうか、私には疑問符がつきます。 つまるところ、持続性を持った社会的なつながり、一定の社会的参加がなければ、この世界を変容させることはできないと私は思うのですが。
NOBORU: 現実には、病んだ社会からの逃避が、「前個的自己愛」を残したまま、いや残しているからこそ、新たな権威(宗教的な権威やグルという権威)への依存的な関係に巻き込まれ、埋没しててしまうというケースもかなり多いのでしょうね。
Paratorapa: それこそが問題とされる側面だと思います。 私の見てきたニューエイジの多くはこの前個的自己愛の段階にとどまっているものです。傷つくことを極度に恐れ、自己防衛で完全武装しているパターン、あるがままの自分を見つめることを避けて、ゆがんだ自己認識に陥っているパターン、互いの傷を舐め合い、同病相憐れむのパターン、考えることを止めて、無批判的、無抵抗に権威に依存しようとするパターンなどがそれです。いずれも逃避の否定的な側面でしょう。 ところで、ウィルバーもニューエイジに対してはかなり厳しい見解を示していますね。前個的自己愛が中心であると。トラパとニューエイジも日本では混同されているところがありますが、別のものであると思ってもらった方がいいでしょう。 トラパはニューエイジ的世界観を弁護しているわけではく、問題によってはむしろ厳しく批判している訳です。前個的なものを超個であるかのように持ち上げる誤謬であると。 NOBORU: ウィルバーに代表されるトランスパーソナル心理学は、精神世界への関心が場合によっては間違った方向に進んでいくかも知れない可能性をチェックする機能としても大きな意味があります。その意味でももっともっと関心を持たれ、学ばれ、広められていくべきだと思います。
Paratorapa: このへんで自己満足や権威的服従に陥らない、社会や世界に対して「開かれた態度」の形成について、そろそろ論点を移していってはどうでしょうか?
NOBORU: ご提案の通り次の論点に移ることにしたいと思います。 ただその前に、ニューエイジの可能性ということで考えたことをほんの少し述べたいと思います。それが「開かれたありかた」という次の論点にも関係してくると思いますので。 パラトラパ雅さんのサイトの新着情報のところに、ニューエイジ批判をコンパクトにまとめた文を見つけましたので、その出だしの部分を引用させてもらい、その上で私の考えを述べます。
「ニューエイジは,新霊性運動及び新新宗教の一部,個人主義的自己変容運動を包括する宗教的な運動であり,明確な組織を持たないもの,個人参加型グループ,マスメディア(インターネット含む)を通じた活動が中心のものなど,多様な形態をとっています。それに通底している流れは,お手軽に個人の霊性に関する欲求を満たそうとする所にあり,これが大衆に受けている部分だと思います。お気軽にお手軽に意識の変容を求めて行くという意味で,趣味,娯楽,レジャーとしてはメリットを持っていると思います。が,これによって即座に究極や神仏意識との一体化が達成され,さらなる意識の拡張を続けることができるなどとは私は考えていません。」 なかなか手厳しいご指摘ですが、確かに頷かざるを得ない面はありますね。かなりの部分でニューエイジが「趣味,娯楽,レジャーとしてのメリット」以上に出ないだろうことを認めつつ、私としてはその肯定的な側面、可能性の部分に着目したいと思います。
Paratorapa: この辺は、他にどんなメリットがあるのだろうかと首をひねってきたところです。遊びは内発的動機づけから来るものであり、そのこと自体が面白くて遊ぶわけですから、すそ野を広げる、取っかかりをつかむという点ではメリットであると私も認めます。 ところが、どの道にしても一定の所まで進んだ学びをするようになると、その奥深さを追求していく中で「魂の暗夜」、霊的危機などネガティブあるいは急激な展開による体験の進行に抗しきれない、という状況が出て参ります。この辺はグロフなどが詳しく分析、検討しているところです。 いわゆるSEなどですが、これは病理的なプロセスときわめて似ているような側面もあるし、生半可な知識や技量では逆に事態を深刻化させる場合もあるわけです。
ニューエイジの問題の1つは、参加者が危機的な状況に陥ったときに、適切に対処、対応のできる人が少なく、放置、放任してしまう所にあります。これは指導者の資質・能力とも連動しています。 ここまでやりとりして中で明らかにされてきたように、権威主義的服従や自己愛増長の構造では、もし参加者が手に負えない状況になったとき、さっさと追放、放置してしまい、他のニューエイジを渡り歩くジプシーになるか、一向に回復できないまま沈没してしまうこともあるでしょう。 入り口、入門で留まるつもりなら結構でしょうが、その先まで行くつもりなら遊び半分では大けがをするように思います。
NOBORU: 私が着目する肯定的な側面は、まず、多くの人が、一切を物質的な要素に還元してことたれりとする近代科学的な世界観によっては満足できず、かと言って伝統的な宗教の教義にも素直にうなずけない中で、それでもなお生きる意味をまさぐっている状況があります。そんな状況の中でニューエイジ運動・新霊性運動は、近代科学のドグマでも伝統宗教のドグマでもない、もうひとつの新しい道を暗示しているとは言えないでしょうか。
Paratorapa: ドグマに陥らず、独りよがりにも陥らず、理論的、実証的にもしっかりした体系になっていくならば、新しい道として確立されるようになるでしょう。しかし、現時点ではそこまで到達していないのではないかと私は一貫して述べています。
NOBORU: ニューエイジが、世界観として新しさをもっているかどうかは、充分検討の余地があると思います。しかし、少なくとも、伝統的な宗教の特定のドグマから自由に、一人ひとりが霊性を高めていくことが可能であり、大切であり、そこに生きる意味があるという考え方は、ある面で新しさをもっていると思います。 こういう考え方が、ニューエイジのすべてとは言わないまでも、ひろく新霊性運動に共通するものとするなら、それは、近代科学はもちろん、大部分の教条的な伝統宗教も語り得なかった、新たな精神性を個々の人生に付与する可能性がある。いやすでに多くの人々が(つまり大衆レベルで)、ニューエイジ思想から、生きることの精神的な意味を個々に読み取って、それに支えられて生きている。 何らかのし方でニューエイジ的な自己変革の方法にかかわったとしても「即座に究極や神仏意識との一体化が達成され,さらなる意識の拡張を続けることができる」ことなどは、きわめて少ないのでしょう。それは事実だと思いますが、ニューエイジ的な潮流が、生きることの意味、精神的な意味を、何かしら新しい仕方で示唆しているということ。それが、近代科学の洗礼を受ながら、なおかつ「意味」に渇いている私たちの心に訴えかけているというのも事実ではないでしょうか。
Paratorapa: 科学的な世界観の無味乾燥、フラットランド、宗教の教条主義、わが神のみを信じよ、とする狭量さに幻滅している人が多いがゆえに、第3の道を求めようとしているのだろうと思います。心の指針、支えになるものです。 ただし、ニューエイジャーの知識や情報を無批判的、無抵抗に飲み込んでしまう態度は「思考停止」といわれても仕方のないことであり、ドグマに陥る危険も常にありますし、それが服従の構造と結びつくことで知識の刷り込みにもつながるわけです。 Noboruさんとやりとりさせていただいて思ったのは、私の方が基本的に疑い深く、否定的な側面に目がいきやすい、ということです。 科学的な目で見ることもありますし、超心理学を学んだおかげで、懐疑論者の論法も十分理解していますので、その辺が慎重に物事を見る目を培って来たものと思います。
ニューエイジをめぐる対話(6)新霊性運動の捉え方へ
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