ニューエイジをめぐる対話(7) 「新霊性運動」の歴史的な意味

 NOBORU:第三の道  最近のやりとりの論点を整理して見ますと、私がニューエイジや新霊性運動に歴史的な側面から肯定的な意味を読み取ろうとしているのに対し、パラトラパ雅さんは、その現実的な場面での様々な問題を指摘することによって、かなり否定的な見解を示しているように思われます。現実に金儲けのためなら何でもするようなニューエイジ商法やそれに巻き込まれた運動に、歴史的に肯定的な意味は読み取りにくい、というのがパラトラパさんのお考えのように思われますが、いかがでしょうか。   それに対し私は、今まで宗教が担っていた働きを、もっと新しい形で持ちはじめたのが新霊性運動ではないかと考えるわけです。新しい形というのは、閉ざされた組織や閉ざされた知識(教義)、閉ざされた人間関係(師弟関係)から自由にということです。 すべてを物資に還元して説明する近代科学は、「私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいとう根源的な欲求」(中村雄二郎)を満たしてくれません。その欲求を、既存の宗教の閉ざされた在り方とは別の仕方で追求しはじめたのが、新霊性運動ではないかとという捉え方(作業仮説)から、さまざまな側面を考えてみたいのです。 Paratorapa:  歴史といっても1960年代末から起こってきた運動ですし、まだその歴史は浅く、揺籃期にあると思います。その中で生き残る本物と消えゆく偽物があるのだろうと思います。 特定宗旨、宗派の教義や組織による縛りから自由であることは、超宗派的な意識の変容と統合をめざす上で、有意義であると思います。その意味で全面的に否定する気はありません。 NOBORU:  そうですか。であれば、見る側面がやや違うということで、やはり基本的な認識に大きな違いはないということですね。 ただ、私が「歴史的」「歴史的な視点」等の言葉で意味していたことについては説明不足だったような気がしますので、若干補足します。 それは、「数百年、あるいは数千年という人類史の視点から見て」という意味です。 そういう巨視的な視点から見て、今われわれは、これまで述べてきたような意味での閉ざされた宗教から自由な仕方で、精神的な世界を探求しはじめた、しかも大衆的なレベルで探求しはじめた時代である。  文明の発生以来、ほとんどの大衆は閉ざされた宗教の中で、自己の人生の意味を位置付けて来た。近代科学の成立以降は、閉ざされた宗教とともに精神世界そのものが否定される傾向が増していった。 現在われわれは、閉ざされた宗教の拡大されたエゴイズムからも、近代科学の説く、暴力的なまでのニヒリズムからも自由に、ひとりひとりが精神世界を探求できる時代へと歩んでいるのではないか。その方向にしか歩むべき道はないのではないか。ニューエイジ運動や新霊性運動のもっとも良質の部分は、そういう歩みのさきがけとして見ることができるのではないか。 「歴史的な視点」とは、だいたいそんな意味でした。 Paratorapa:   なるほど。。。そう言う意味でしたら、理解できます。  閉鎖的な組織と教義から自由にという意味は私も同意します。しかし、半面「潜在的な組織」、「暗黙裡の教義」も存在します。基本的に個人が単独で活動することはほとんどないと思います。何らかのグループが基本単位であり、そのグループの後ろに幾重にも上位グループが関与しています。集団の境界線は曖昧ですが、階層構造をもっており、国際的な広がりもあるのです。末端の人は知らないでしょうが、この業界にも裏はあります。 NOBORU:   このあたりは、もう少し詳しくお聞きしたいところですが、難しいでしょうね。ひとつだけお聞きしたいのは、これはたとえば、ある同一の名称で呼ばれるグループ内での階層構造にかぎらず、全く関係がないように見える集団相互にもそういう関係が潜在しているという意味でしょうか。 Paratorapa:   そう言う意味に解していただければと思っています。何と何がどこでつながっているか見えにくいです。   暗黙裡の教義ですが、これはニューエイジ的な世界観を正しいものとして信じるかどうかに関わる問題です。宗教団体のように教義を前面に出して教え込むと言うことは少ない代わりに、専門化された言葉や技法の習得を通じて、自然と信念の刷り込みが行われます。共有される知識、情報がなければ「運動」にはなりません。また、自由な分だけ、識別眼、本物を見分ける力が要求されます。 私はこうした背景的な部分について、ある程度見聞がありますので、支障のない範囲で述べてみました。きわめて微妙なものがありますので、具体的に言えないことをお詫びします。 NOBORU:   専門化された言葉や技法の習得を通じてというのは、たとえば潜在能力開発などの名称で行われるワークショップでのレクチャーなどで、専門用語や技法の伝授を通して参加者に刷り込みが行われていくという意味でしょうか。そして、その本音の目的は、営利や組織の拡大である場合が多いというような意味合いですか。 Paratorapa:   そういう意味です。 いくら新霊性運動が組織や制度から自由だといっても、人が集まらなければ成り立ちません。セミナーやワークショップをただでやっているところはありませんし、それなりの投資が必要です。後は対費用効果が出てくるかどうかです。 前にも述べたように、霊性開発を生業としたり、霊的世界で生きていくという選択をした人はともかく、Noboruさんのおっしゃるような「凡夫」には凡夫なりの生活経験をベースにしたやり方もあると思います。これは「死後の世界」、「生まれ変わり」といったビリーフは、必ずしも必要としません。 これは無理をして「開発」するものではなく、自然にそういう意識の変容が出てくる場合もあります。人生経験を積むことだけでも超越的世界観が形成されることもあります。   Noboruさんは以前に「裸のサイババ」で、彼らの組織で行われているとされる数々の問題点をご存じになったですね。事の真偽は私には判断できませんが、ああいう情報が出てくる自体、その背景には裏の世界での政治的、経済的、派閥闘争があることの現れなのです。ですから、私は「裸のサイババ」が出てきても特に驚くことはありませんでした。 NOBORU:   なるほど、そうかも知れませんね。 私がサイババ問題を他の問題にくらべて重大だと思ったのは、日本のニューエイジや精神世界の運動をリードする、かなり多くの人々がサイババを礼讚し、喧伝し、自らサイババ詣でをして、嬉々ととしてその報告をしていたという事実からでした。そして何故その問題性を見抜けなかったのかと疑問に思いました。 Paratorapa:   これが「信」の世界の特徴でもあります。スキーマに一致することだけが見え、これと反するような情報は無視されるか、曲解されるわけで、決して批判されません。 多重なスキーマをもっているか、複数の情報源をもっているか、いずれにしても複眼思考ができないと批判力は失われていきます。硬直した思考は上記のような弊害をもたらすと思います。 NOBORU:  サイババ問題がきっかけで、この世界に存在する多くの集団が、本当の意味で新しい精神性の時代へと歩んでいる集団かどうかを見極める基準として、パラトラパ雅さんとの対話のきっかけとなったいくつかの項目を挙げたのでした。   ともあれ、パラトラパさんが指摘するような現実の様々な問題は、指摘して、し過ぎることはないと思います。それは「警鐘」としても必要です。ニューエイジ的思考が、「自己慰撫や現実逃避的な作用しかもたらさない場合も」あるでしょう。「死を美化して、現世からの逃避につながる可能性」や「自分の身の回りので起こる出来事をすべて「過去生のカルマ」のせいにして、現実否認を起こす可能性」もあるでしょう。すべてが必要必然ベストであるとする考え方や、没我ないし“和”による集団への埋没などが、管理にとって好都合という面もあるかも知れません。   にもかかわらず私は、生の「意味」に沈黙する物質科学や、宗教的な知の閉ざされ在り方とは別の道がニューエイジ運動や新霊性運動によって示唆されているのではないかと考えます。生の「意味」の問題を、知の在り方としても、組織や集団という場面においても常に「開かれた」かかわりにおいて追求していく、そういう肯定的な側面をこの潮流に読み取りたいのです。また、そういう方向しかないのではないか。だからこそ逆に、現実にある問題点は厳しく批判する必要があるのかも知れません。  もうひとつ言えば、人々の「意味」への渇きが、閉ざされた宗教に飲み込まれるかわりに、今は商業主義や管理主義に利用されているという側面がかなりあるのかも知れませんが。 最近のパラトラパさんとのやりとりでは、もうひとつふたつ論点を整理しなければならないのですが、長くなりますので、ひとまずここまでとします。  あと一・二論点を整理して考えるべき点は、ニューエイジ運動や新霊性運動の中の修行実践に係わる側面と世界観にかかわる側面についてです。この点の理解の仕方にパラトラパさんと私の間で若干の認識のずれがあるようですので、その点の違いを明確にする必要があるとおもっています。 Paratorapa:   違いが明確になるというのも興味がありますし、それぞれの個性が出てきておもしろいと思います。 NOBORU:霊的な世界観を支えに   最近の対話で論点を整理しなければならない、残りの2点について述べます。   第一には、霊性の開発の困難さの問題。つまり霊性開発はエリートにのみ許され、一方で思想・世界観としての新霊性運動はもともと大衆性をもっているとうこと。   第二には、霊性の開発の連続的な側面と断続性の側面という問題です。  私は、ニューエイジや新霊性運動を (1)霊性の開発へ向けての修行という側面 (2)思想・世界観としての側面 という二側面から考える必要があると述べました。  パラトラパさんは、先に自分の心の内側の開発の道のりを次のように分けました。 0.外部からの情報の取り入れによる知的理解 1.実践的活動に対するコミットメント 2.より進んだ実践 3.黙想的環境での生活 4.日常性の中での非日常体験の根づけ 5.完全な黙想生活 というようなステップを踏むような印象を持っています。  そして私のいう(2)思想・世界観としての側面は、「ステップ0の入り口の手前に位置づけられるわけであり、そこから先に進むには何らかの実践を伴う体験的理解が必要となる」とのことでした。  確かに霊性の開発のための修行という面から言えば、思想・世界観にとどまっているレベルは、ステッ0に違いないと思います。しかし、行としては0でも、思想・世界観として果たしている役割は、大きいと思うのです。 閉ざされた教義としてではなく、もっと開かれた世界観、ある意味での検証(限定はありましょうが)の努力にも充分開かれたものとしてこうした世界観が広がっていくこと自体に重要な意味を読み取っています。  長い修行に打ち込んで霊性の開放を果たしていく人は、いつの時代にもごくわずかだったでしょう。その点、現代は変化しつつあるという説もありますが、今はそれには触れません。 Paratorapa:   霊的エリートにのみ許されるというのは、さまざまな弊害をもたらしてきました。ですから、広く社会に開かれるという側面を失ってはいけないと私も考えています。総論としてはNoboruさんと同じです NOBORU:   私たち、大部分の「凡夫」にとって「悟り」がまれであることは事実です。 しかし、その世界観を自分の生き方の指針やバックボーンとして受け取ることは無意味ではありません。いや積極的な意味があると考えます。近代科学的な唯物主義の世界観は人をニヒリズムに導きますが、霊性の世界を認め、長い個々の人生の道程を霊性の向上の場として捉える生き方は、人生の意味を底から支えます。 Paratorapa:   こうした世界観が広く共有されるようになっていくことは、人生の意味、生きる目的について深い洞察をもたらし、充実感を高めるであろうということは、私の研究でも明らかになっています。したがって、それはデータに即して考えても正しいといえます。 NOBORU:  もちろん、パラトラパさんが指摘するように、そうした世界観の一面が現実からの逃避になってしまうことはあるでしょう。それを従来の教義のように閉ざし固定化して、絶対視し他者に押し付ける過ちを繰り返してはなりませんが、その大枠を認めて、検証の可能性に開かれた態度で臨むという姿勢は、新霊性運動のいちばん根底的な部分と見なしたいと思うのです。そこからはずれた部分は、しっかり批判して行くべきでしょうが。 Paratorapa:   その正当な批判に耳をふさぎ、目を背けるようなことさえなければ、問題は解決されるであろうと私も考えています。いつも繰り返すように、自浄作用、自己均衡力がなくなると、どの運動も停滞し、崩壊していきます。これだけは失ってはいけないというのが私の真意です。 この点は、決定的な食い違いではないようです。 私はあえて苦言を呈している、という態度をとってきました。 ものごとには二面性があります。私はどちらかというとネガティブな部分を強調してきましたが、そこから目を背けてしまっては、逆に進歩もしない。注意してしすぎることはないと思うのです。私は、深く考え、吟味することの大切さを主張しています NOBORU:   そのあたりは、まったく異論はありませんし、大変に学ぶことが多かったと思います。ところでよろしければ、先ほど触れられたご研究の内容をかんたんにご紹介いただけますか。 Paratorapa:  詳しくは以下のURLに出ています (http://homepage1.nifty.com/paratorapa/strans.htm)が、簡単に述べておくと、ここでは自己超越傾向がハピネスと相関していることが示されています。そして、自己超越傾向は加齢に比例して高まる(中年期に若干停滞する傾向はあるが)ことも示されています。年をとるにつれて自然に、そういう境地が開けてくるようであります。     http://homepage1.nifty.com/paratorapa/mihokiyou.htm では死生観とハピネス、自己超越傾向との関係が以下のようにみられました。 ***  死生観における死後存続概念を持つことと自己中心的生き方意識は負の相関を持ち、その自己中心的生き方意識は、あらゆる満足感を低下させ、自己超越傾向においても低い結果となった。  また、死生観における宗教性(霊性)の否定は、生き方意識に影響を与えていた。つまり、霊性を否定することは、幸福感に正の相関がある努力的、協同的、多彩的生き方意識を遠ざける要因となっていたわけである。  そして、その死後存続概念を持つかどうか、霊性を否定するかどうかは死に関連する経験頻度と有意な相関を見せた。つまり、経験が多いほど死後存続概念を持ち、少ないほど霊性を否定していた。また、その死に対する経験頻度は自己超越傾向と正の関連性があることがわかった。  さらに、死後存続概念、霊性の否定に関連する要因として、生に対するイメージが見出された。すなわち、生に対して肯定的イメージを持つことと死後存続概念とは正の相関を持ち、霊性を否定することと負の相関を持っていたのである。ここに生と死のつながりが浮かび上がってくる。つまり、生を肯定的に捉えることが死生観にもポジティブな影響を与え、開かれた死生観を形成しているのではないかと推測されるのである。 ***  以上をまとめると 1.死後存続を否定するビリーフは自己中心的生き方意識を強める。 2.自己中心的生き方意識はハピネスを低下させる。 3.霊性の否定は、努力的、協同的、多彩的生き方意識を弱める。 4.努力的、協同的、多彩的生き方意識は、ハピネスを高める。 5.ハピネスは自己超越傾向を高める。 6.「生」の肯定的イメージは霊性の肯定、死後存続概念の肯定と相関している。 7.生と死の肯定的イメージはハピネスを強める。 となります。  ゆえに、「生」を受容、肯定し、ハピネスを感じることが、超越傾向の強化につながるとデータからもいえます。 ただし、「死生観」というワンセットの観念形で、生と死の受容ができていることもハピネスの要件の1つです。 私は、個人的な見聞、体験から、またこうした心理学的実証データの両面に基づいて、前のように語りました。 NOBORU:凡夫と霊性  ところで、もうひとつだけ論点の整理をしておきたいのは、精神的な成長の連続性と断続性という問題です。 前に真の霊性の覚め、「悟り」を選ることができるのは、いつの時代にもごく少数の限られた人々だったという話題が出ました。それは確かに事実だと思うのです。それは事実であり、そのこと自体はなんら批判の対象とはなりません。  問題は、だから大部分の人間は最初からそれをあきらめて、それと無関係なところで生きていくほかないという風潮が蔓延することです。 私は、「凡夫」が少しずつ精神的に成長していくことと、覚醒に至ることとは連続的なものだと考えています。 普通の人間の精神的な成長のいきつく先に悟りがあると思うのです。 ですから、普通の人間が「この世界には深い精神的・霊的な次元がある、そして私たちは、学び成長し、少しでも高い霊性に近づくために生きている」という世界観に支えられて、普通の生活の中で成長を目指して生きていくことにも意味があると思います。  新霊性運動は、大衆が普通の生活の中で、悟りや覚醒に至る手前の道を歩んでいく生き方をも指示しているとは言えないでしょうか。私は、そうしたものとしてこの運動のそういう部分に注目したいと思います。 もちろん、成長から覚醒への道程には断絶もあります。禅語の「百尺竿頭一歩を進む(ひゃくしゃくかんどういっぽをすすむ)」(五灯会元)のように、最後のところで大いなる飛躍が必然なのかも知れません。そのためには世俗の生活を一度捨てることも必要なのでしょう。しかし、それはやはり現実にごく限られたものにのみ許されます。  新霊性運動に大衆的な意味があるとすれば、それは、世俗の生活を送る「凡夫」にとっても、霊性の次元を支えにしながら日常生活そのものを意味あるものとして生きていけるところではないでしょうか。 大衆のレベルに、精神的・霊的な次元を意識した生き方が拡がっていくことに、新霊性運動の意味を見いだしたいのです。 Paratorapa:凡夫と霊性  「普通の人間の精神的な成長のいきつく先に悟りがある」とのことでした。 この辺は、議論にズレが出てしまうのを覚悟で述べさせていただくと、基本的に「悟り」は生きているからには誰でもすでに経験している、というのが私の最近の感想です。 きわめてシンプルなことであり、明快すぎて馬鹿馬鹿しくさえ感じるようなことです。  霊的なプロやそれをめざす人の場合、修行やら訓練やらという、前に書いたようなステップを踏み込んで、上り詰めていく必要があるかもしれませんが、たとえプロでない「凡夫」であっても、すでに一度くらいは「悟っている」はずです。これは別に難しく考えるものではなく、本やメディアから知識を得るものでもなく、単に生活の中で「感動」していることです。 生きていること自体が楽しい、ワクワクする、嬉しい、すなわちハピネスを感じている瞬間であり、それはどのような活動、文脈の中で経験されてもいいわけで、大上段に振りかぶるものではありません。  「生」の受容、肯定の体得こそが基本的に「悟り」であると思います。 マスローの言うようなB価値の実現やB認識も、このイメージに近いと思います。 しかし、人間は生まれてから常にそういうハピネスの状態を維持することができません。罪悪感、辛い、悲しいと嘆くことも多くあります。これは、心の曇りであり、否定から来るとらわれです。ですから、多くの場合、「悟り」も瞬間風速で終わってしまいます。  私は「慈悲」という言葉が好きですが、生きとし生けるものを、そのまま自然な状態で生かしている大いなる力、慈悲の作用がわれわれの内と外にあるのだろうと思います。その働きを純真無垢にそのまま享受することが「悟り」なのだろうと。 無邪気に遊んでいる子どものような心でしょうか。 そう言う状態には素人も玄人も区別がないわけで、確かに霊的なプロはその使命から、これを純化して一層高めてくための特別な訓練を続けることになるのでしょうが、「俗」の世界に生きている凡夫であっても、おいしいものを食べながら、おいしいお酒を飲みながら、楽しい旅行先で、日常生活の至る所にも、そのきっかけは転がっている。  さしあたり、物理的世界に生まれてきて、有限の肉体を使って生活しているわけですから、その中でもいっぱいハピネスを感じられる素材はあるのです。 神秘体験や超常体験をするだけが悟りへの道ではない、とはっきり思えるようになりました。(繰り返しますが霊的プロは別。彼らには彼らの役割があります)  みんな同じである必要は最初からありません。個性的な顕れ方がありますから。 この辺の話は、学問的云々の問題ではなく、あくまで私個人の見聞や体験に基づいた見解に過ぎないもので、まだ上手に伝えることができません。自分でもこれまで難しく考えすぎてきたことが馬鹿馬鹿しく思われるくらいです。 もうちょっと咀嚼できるには時間がかかりそうです。 Paratorapa:   ここで、宗教と霊性の異同について、少し整理しておきたいと思います。日本トランスパーソナル心理学/精神医学会の学会誌の最新号が 届き、特集が「心理療法と霊性」だったので、この中で安藤治他2001「心理療法と霊性-その定義をめぐって」 トランスパーソナル心理学/精神医学2,1-9.の論文を参考にまとめてみました。 *霊性の定義 ・・・ドナルド・ロスバーグ 「自己や共同体が『聖なるもの』に十分に加担し表現する方向に向かっ て、生きた変容が促されるのを助ける教義や実践に関わるもの」 *宗教の定義 ・・・同上 「宗教は『聖なる』とみなされるものと関連する教義・儀式・神話・体 験・倫理・社会構造などの組織化された形を意味する」   以上のことから  霊性=宗教-(組織+制度)  ととらえることができる。 特に集団に縛られず、制度からもフリーな立場で「聖なるもの」に関与していくというスタイルが、今世紀の宗教意識のトレンドであることは間違いないでしょう。 しかし、既存の宗教団体からはフリーでありますが、「教義と実践」は 備わっているわけで、基本的には霊性も宗教と同様に「信」の世界であり、スキーマの影響を受けることには留意したいです。 NOBORU:霊性とは   「特に集団に縛られず、制度からもフリーな立場で「聖なるもの」に関与していくというスタイルが、今世紀の宗教意識のトレンドであること」は、その通りだと思います。そして私は、大衆レベルでこうしたスタイルが拡がるのは、長い人類史の中でもはじめてである、と捉えています。  霊性=宗教-(組織+制度) ととらえることができるとのことですが、 私は、ここからさらに一歩踏み込んで  霊性=宗教-(組織+制度+教義)   ととらえたいと思います。それは教義への単なる信ではなく、直接的に聖なるものに触れている状態です。これは狭義の霊性です。  狭義の霊性の次元は、別の視点から云えば、自己中心的な認識や、特定の個人的スキーマ(外界からの情報を処理するために使われる知識の基本的なまとまり。シェーマ)や、特定言語や文化の枠組みから、かぎりなく自由に「あるがままの現実」、真如に触れていくことを意味すると思います。 ですから、もしスキーマの影響を受ているのであれば、それは真如に触れていない、つまり本当の意味で霊性の次元に触れているとは言えないと思うのですが、いかがでしょうか。  これに対し広義の霊性は、既存の宗教団体の組織や制度、またその閉ざされた教義からは自由ですが、物質的な次元を超えた精神的・霊的な次元への信をもつ状態と定義したいと思います。なんらかの信があり、それに囚われていれば、その信が何かしらスキーマとして、真如に触れることをさまたげることはあると思います。信も何かしらの判断を含む以上、スキーマ・分別知であり、分別知への囚われは、霊性からの離反です。 Paratorapa:   霊性の概念について、興味深い見方を提示していただきました。 この点については、異議なしです。  これで、かなり霊性なるもののイメージが明確化できたと思います。 黙想的な智慧を得ている場合はともかく、表層的な「信」のレベルではそうなるのだろうと思います。 NOBORU   少し前にニューエイジや新霊性運動を (1)霊性の開発へ向けての修行という側面 (2)思想・世界観としての側面 という二側面から考える必要があると述べ、そして本当の意味で霊性に目覚める者は非常に少ないだろうと述べました。  今述べた狭義の霊性は、どちらかと言えば(1)に関係が深く、広義の霊性は、(2)に関係が深いと言えるかも知れません。(1)で使われている「霊性」は、もちろん狭義の霊性です。  「信」は、深い内省や絶望、その徹底性を経ることによって本当の意味での霊性・宗教性への超え出るという側面があると思います。 しかし多くの場合、それのみが唯一正しいという自己中心的な分別知になってしまい、盲信となって、他との争いを引き起こす原因ともなるのでしょう。特定集団の教義への盲信はその典型です。  特定集団の組織・教義から自由であったとしても、自分自身の霊的次元への信を、「多重なスキーマ、複数の情報源等、複眼思考による批判力」でたチェックしていくことが必要なのでしょう。  同時に、これまでみて来たようなチェックをつねに忘れないこと。つまり、権威主義的な師弟関係でないか、実証性を失っていないか、閉ざされた組織・教義になっていないか、エゴイズムに陥っていないか、ということなどの確認が大切なのでしょう。 Paratorapa:   論点がかなり整理されてきて助かります。自分で自分の論旨の整理をするのに助けとなりました。 NOBORU :   こちらこそ、一人で考えていたのでは取り得なかった視点から考えることが出来たり、ある側面を一歩突っ込んで考えることが出来たり、自分の見方の甘い点を確認できたりと、本当に多くを学ばせていただいています。これこそが対話の妙味なのでしょうね。 Paratorapa:  かなり汚れ役ではありますが、無批判的で吟味されない情報の鵜呑みだけは避けるべきであると考えています。しっかりと情報を受けとめ、熟考する習慣づけをしていかないと。結論先行型のメッセージは明快ですが、なぜにそうなるのか、その結論に至るプロセス、手順を押さえた上で吟味しないと、情報に振り回されるだけです。 私はそう言う理由から、是と非をはっきりと主張していくスタンスを一貫して取ってきたわけです。 

02・1・14 追加

霊性への旅

臨死体験も瞑想も気功も、霊性への旅、覚醒への旅・・・

0コメント

  • 1000 / 1000