『呼吸による癒し』ラリー・ローゼンバーク(春秋社)

 

『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』の著者はハーバード大学などで社会心理学などを教えた博士で、クリシュナムルティ、ヴェーダンタ、禅、そしてヴィパッサナー瞑想を30年修行をしたという。この本は「出息入息に関する気づきの経」(アーナーパーナサティ・スートラ)に基づいて教えるという形をとっている。 あれこれ迷いなが瞑想している今の私にとっては、とてもとても参考になる本だ。本当にことこまかに親切に手取り足取り瞑想を教えてくれている。しかも、たんなるノウハウの本ではない。瞑想を説くことがそのまま深い深い求道の精神と説くことにつながっている。あるいは、瞑想の在り方を説くことが、そのまま生き方へ洞察に繋がっている。 瞑想に迷う時、何回か読むことになるだろう、いや読みたいと思えるような本だ。 この本の中の珠玉の言葉のいくつかを抜き書きしました。


  『呼吸による癒し』 珠玉の言葉

『呼吸による癒し』は、「アーナーパーナーサティ・スートラ」に沿って、次第に深まり行くそれそれのレベルについて順次解説していくという形をとっている。私は、あまりに初心者なのでその深まりにそって本書に触れていくという形をとらない。全体を通じて私なりに印象に残った言葉を、感じたこととともに紹介していくという形をとっている。  いつかレベルの深まりに合わせて実践的な感想を添えて紹介するという書き方が出来るかも知れない。

◆「究極的な目標――それは簡単にできることではなく時間もかかります――は何かというと、たとえば怒り、寂しさ、絶望といったあらゆる経験がそのエネルギー共に浮上してくるままにすることです。これらのものが沸き起こってくるのを受け入れ、意識の光のもとで変容させるのです。こうした意識状態には莫大なエネルギーが存在しており、私たちは多くの時間そのエネルギーを抑圧しています。そのため、そのエネルギーを失ってしまうばかりか、抑圧のためにまた大量のエネルギーを使っているのです。私たちが徐々に学んでいくのは、怒り、寂しさ、絶望といったものの出現を許し、それがおのずから変容し、そのエネルギーが開放されていくようにすることです。この修行においてあなたは問題を解くのではなく、問題を溶かしてしまうのです。」    

ここには、私がずっと疑問に思っていたことへの素晴らしい解答がある。

◆「この教典(アーナーパーナーサティ)の教えは、息をありのままに、呼吸に委ねることです。この最も初歩の教えの中にも、ダルマの修行の中心となる委ねの技術が含まれているのです。  もし呼吸に干渉することなく、息を自然のままに任せられるようになれば、やがて呼吸以外の他の経験においてもそうできるようになるでしょう。感受をありのままに、心をありのままに任せられるようになるかもしれません。私たちは何が起こるかを恐れるあまり、心を必要以上にコントロールしています。しかし心をありのままににすることを通してのみ、やがてはどのようにして自由の中にリラックスして入って行くのかを学ぶことができるのです。その自由のことを仏教はときに私たちの本性といい、禅は「両親が生まれる前の自分の顔」といいます。(中略)アーナーパーナーサティでは呼吸を意識することによって同じことをするのです。」(P35)

 これまで座禅の指導を受たことはあるし、その指南書も読んできた。ヨーガにも一時期、取り組んだことがある。どちらにおいても呼吸のコントロールは重要視されるので、上の文を読んだ時は、少し意外であった。  しかし、その考え方は理にかなっている。呼吸をコントロールする瞑想が間違っているとは思わないが、「ものごとをすべてコントロールし、方向づけ、指揮する」傾向から離れて、息を自然にまかせ、それを静かに観察するといのも素晴らしいと思う。しばらくこれをやってみるのもよい。  

◆「呼吸を出会いの場として心と身体が結合するという、この全体的なプロセスについて学んでいくとわかるのは、気づきが非常に大きな影響をもたらしているということです。影響といっても、呼吸をコントロールするとか、変えるといった問題ではありません。そうしなくても注意をはらえば呼吸の質が変わるのです。それはおそらく思考が少なくなっているためでしょう。息はより深く、微細に、きめ細かく、より楽しめるものになってきますし、身体はその効果を受てさらにリラックスしてきます。

 それは何かを得ようとすることではありません。得ようとするとかえって妨げとなります。その変化の気づきの力を反映しているだけです。たとえばあなたが怒ったり心配したりしているとします。心臓の鼓動が激しくなり、身体が緊張してきます。けれどもしばらくのあいだ息と共に在ることができれば、つまりその感情を抑圧することなく、感情を感じつつ呼吸していれば、すべてが変化していきます。心は静まります。呼吸と身体は行動を共にしています。気づきが呼吸に触れたとき何かが起こるのです。息の質は良い方に変わっていきます。」

 注意をはらえば呼吸の質が変わるというのは、なるほどそうなのかも知れないと思う。自然のままの呼吸にただ注意をはらう。それだけで呼吸が変わっていく。これは実践的に確認していくほかない。、  今日はそんな感じで自然な呼吸で瞑想した。吐く息をできるだけ長くする、いつもに比べると気持ちの上でも肉体的にもとても楽でリラックスする感じであった。  ただ、上に書き写した文の後半部は実践的にまだよくわからない。「つまりその感情を抑圧することなく、感情を感じつつ呼吸していれば、すべてが変化していきます」とあるが、これは、感情を感じながら呼吸にも注意を払うというこだろうか。呼吸に注意を戻そうとすると感情からは目がそれる。感情に注意を払えば、呼吸には充分な注意は向けられない。この辺がまだ実践的にどういうことなのか、はっきりしない。

◆「私たちはどこか目的地に着きたいと思っている――そう思わなければそもそも修行など始めたりはしなかったでしょう――のですが、しかしそこに行きつく方法はただここにしっかりと存在することだというのです。A地点からB地点へ行く方法は、真にA地点にいることだというのです。何かを改善したいという希望を抱いて呼吸を見つめているとき、現在とのつながりがいい加減になってしまいます。現在こそ私たちが手にしているものすべてなのに。もし呼吸が浅く、あなたの心身に落ち着きがないなら、きっとそうである必要があるのです。ですからそのあいだはそうさせておきなさい。ただそれを見つめているのです。(P48)

◆「修行にとりつかれて、何かを獲得しようという考えが潜入してくる典型的な場面のひとつは、呼吸と共にとどまることを仕事にしてしまうときです。私たちはシンプルな指導を受ると、呼吸と共にあるときは成功でそうでないときは失敗なのだと、すぐに成功や失敗のドラマを作りあげてしまいます。実際には、呼吸と共にあること、心がさ迷い出してしまうこと、さ迷ったことを知ること、穏やかに戻ってくること、そのすべてのプロセスが瞑想なのです。戻ってくるときに、自分を責めたり、裁いたり、失敗したという感じを抱かずに戻ってくることがとても大切です。五分間座っていて、千回戻ってこなければならないのならば、ただそうしなさい。それを自分で大問題にしない限り、問題はないのです。」(P49)

◆「強いて解脱(開放)を起こすことはできません。それは『我』にとらわれた行為であり、自意識過剰な修行者です。本当の瞑想は瞑想者が死んだときに始まります。どこかに行こうとしているとき、ブッダになろうとしているとき、涅槃を得ようとしているとき、瞑想者はまだ生きています。最初はそれが自然ではあります。もちろんあなたは目的を達したいのであり、そうでなければそもそも修行など始めたりはしません。しかし時を経るうちにおのずから、そのような目標も概念にすぎないのであり、かえってそれが苦しみの元となることを理解するようになります。修行が進むにつれて、観察以外には何もないといった、対象への明け渡しが生じてきます。」(P99)

 「途中にあって家舎を離れず」とという禅語を思い出す。 本山博氏が「超作」と言った、結果を考えずに今この時に与えられた仕事に全身全霊で打ち込むというのも、同じことだろう。  これまで何度も試みているが、すぐやめてしまわないで、何度も何度も「舞うように」にそれに戻ってくることを心掛けたい。

◆「『……私以外の全員が集中できている。この心さえさ迷い出さなければ、修行できるのになあ』と自分を責め始めます。でも、そのさ迷ってしまった心を見るのが修行なのです。(中略)ですから優雅に戻ってくることを学ぶのがとても大切になります。格闘するのではなくて、舞うように」(P52)

◆「私たちの世界はいつも現在です。これが、今、私たちの世界なのです。したがっていつも、『自分はどんな状況の中にいるのか、今ここで、私は何をしていることになるのか?』と自問してみるといいのです。車の中にいるときは、運転することが仕事です。子供が問題をかかえてやってきたら、あなたの任務は聞くことです。そえぞれの旬かいにそれなりの知があります。呼吸にピッタリとついて行くように、自分をその任務に仕向けていきます。外に漂い出してしまったら、戻ってきます。何回も、何回も。」(P54)

◆「私たちは記憶やさまざまな理想から自分自身についての概念を創造し、そのイメージを保持しようとして疲れ果ててしまいます。最後にその理想のイメージを手放すことができたとき、それは大変な救いとなります。そして私たちはこれまでとは別なことをする豊かなエネルギーを得ます。」(P82)

◆「‥‥たとえわずかな瞬間であっても、その行為に完全に一体になることができなたなら、そこにはある種の喜び、ある種の歓喜のあることがわかるでしょう。『私』とか『私のもの』という概念の力を弱めるすべてがわかり始めるにつれて、喜びがやってきます。自我の栄光を支えるために背負わなくてはならない信じられないくらいの重圧を、以前のあの疲労感を、あなたはもう感じてはいません。現在すべきことに常に心を向けつづけられる人などいませんが、それができるようになるほどに、その仕事は素晴らしいものとなっていきます。たとえ便所掃除であっても、それはダルマの修行です。なぜなら『私』とか『私のもの』が存在しない自らの存在の本性に触れ初めているからです。」(P84)

◆「恐怖、恐怖から自由になりたいという熱望、心と身体、それらを観察している気づき、その気づきを増進させる意識的な呼吸。私たちはそれらのすべてと共に座ります。  恐怖のような強い感情に関しては、まず最初は自分がどうやって逃げ出そうしているかを観察するのがせいぜいでしょう。それも価値あることです。否認したり、抑圧したり、説明したり、逃げ出したり、空想している自分を観察するのです。これらのことを巻き込まれることなく繰り返し見つめているうちに、心の方が疲れてしまいます。やがてある日――無理にそうすることはできませんが――恐怖が乗じても、注意がそれをサッと出迎えて、ひとつになり、恐怖がその花を開くに任せられるようになります。それこそが恐怖が長い間ずっと待ち望んでいたことだったのです。」(P106)

 ここでは恐怖が語られているが、ほかの強い感情でも同じことだろう。こうした考え方に私は非常に共感し、なっとくするが、それはこれまで人間性心理学などで学んできた心理的変容の考え方と連続的なものとして考えられるからだ。そこに一貫してながれているのは「受容」という姿勢だろう。

◆「瞑想者が呼吸に集中するのにてこずっているとき、往生にしてこの障害のひとつが問題を引き起こしています。もしそれが邪魔し続けるようならば、障害それ自体に対象を切り替えてみるとうまくいくことがあります。呼吸との軽い接触を保ちながら、「こっちを向いてくれよ」と要求している障害に注意を向けます。それは障害について考えることではなく、それに心を奪われることでもなく、気づきをもってそれを観察することです。もちろん呼吸はずっと背景にあって、注意力を保つ手助けをしています。その障害の力が弱まったら、呼吸に戻ってそれに専心してください。」(P224)

呼吸との軽い接触を保ちつつそれを背景に後退させるということらしい。抑圧していた感情が浮かんで来たときも、それに心を奪われず、気づきをもってそれを観察しつつ、背景に退いた呼吸とも軽い接触と保つということのようだ。こういうことなら、感情を抑圧せずなお呼吸との接触も保てるような気がする。実践的にも、そういうことは可能だろうなという感じはする。

霊性への旅

臨死体験も瞑想も気功も、霊性への旅、覚醒への旅・・・

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