Living Meditation Living Insight(Dr. Thynn Thynn)を読んで


BuddhanetのE-BOOKSの中からこれを選んだのは、 日常生活から切り離された修行としてではなく、生活の一方法としてのマインドフルネスをしっかりと基礎付けようという志のあるものを助けるという目的で書かれたものだからだ。今の私には、いちばん必要なものかもしれない。 密度の濃い言葉の連続で、すべて訳して掲載して行きたいほどだ。現実には、そうもいかないので、とくに印象に残った文章を要約しながら訳して、感想があれば書き添えていくという方法をとった。

  (※逐語訳ではなく、自分が読んで印象に残った部分を、原意をそこなわない程度に要約した部分あり)

 

◆ 「自らの自由を探求する心は、何よりもまず個人的な姿勢を超えた姿勢をとらなければならない。我々が個人的になるやいなや、判断し、方向付けをする傾向が生じる。判断や区別を始めるやいなや、知性が働く。知性が心の前面にある限り、それは、我々の内なる深さと本質を十全に経験する可能性をつねに妨げる。これこそが、自由への一切の手段方法(内なる道)が、知性を超え、直観ないし精神性の領域へと転ずる理由である。なぜなら、心の直観的な側面だけが、真実や自由を全体的に経験し、実現することができるからである。」 サティをしながら、今ここの感覚に全面的に目覚めていようとするのは、知性の働き以前に経験をするための訓練ともいえるだろう。

◆「どのような道をとろうとも、もっとも危険なのは感情的な執着を積み上げてしまうことだ。“私の”グル、“私の”信念、“私の”進歩、“私の”経験などがそれだ。  師の導きは、正しく道を進むために不可欠だ。しかし注意深くなければ、妨げにもなる。いちばんよくある問題は、グルや師に個人的に執着することだ。事実それは、内的な自由の探求にとってもっとも克服が難しい。信念、教義、グル、理想、判断を手放すことは極度に難しい。……それらは物質的な富や権力と同じように自分の所有物となり、自由は失われ、さらに先に進まなくなる。」15

◆ 「では、何をすべきなのか。唯一の適切な道は、すべてを平静さとともに見ることである。グルでも、教義でも、理想でも、私たち自身の修行や進歩でさえも、すべてを。そのようにしてのみ私たちは、すべてを客観性とともにみることができるのだ。 自由は、最終の結果ではない。それは、努力の先で私たちを待っている何ものかではない。自由は最初から、この瞬間にある。探求の過程そのものの中で、経験の中で、道をたどる一歩一歩において、私たちは“自由”でありうる。 自由を達成するのに求められるのは、二つだけだ。静寂の心と開かれたハート。」15

◆ 「瞑想のための特別の時間と場所を確保するというのが、一般的な考えだ。実際には、もし瞑想が生活の中での心の平和を得る助けになりうるなら、それはダイナミックな活動であり、日常の経験の中の一部でなければらない。瞑想は、今ここにあり、瞬間瞬間にあり、人生の浮き沈みの真っ只中にあり、葛藤、失意、心痛、成功とストレスの真っ只中にある。」17

◆「もし、怒り、欲望、執着、そしてあらゆる無数の感情や葛藤を理解し、解きほぐしたいならば、解決を見つけ出すためにどこか他のところへ出かける必要があるだろうか。家が燃えているとき、火を消しにどこか他のところへ行きはしないだろう。 もし、自らの心を本当に理解したいなら、怒り、欲望し、葛藤に陥っているときに、それを見つめなければならない。思考や感情が何度も何度も湧き上がり、消えるとき、心に注意を払わなければならない。感情に注意を向ける瞬間に、その強さが失われ、ついには消えていくのを見出すだろう。しかし、注意を向けないなら、その感情がずっと続いていくのを見出すだろう。怒りが静まったあとにのみ、怒っていたことに気づくのだ。」

◆ 「心を理解するためには、整えられた沈黙の心で見、そして注意を払わなければならない。心が際限なく喋り続け、始終何かを問い続けるなら、見るための空きを失う。質問し、答え、質問し続けることに忙しすぎるのだ。 沈黙のうちに自分自身を見るという経験をしてみよ。その沈黙は、差別から自由で、好き嫌いからも自由で、執着からも自由な心の沈黙である。 思考と感情そのものは、一時的なものであり、それ自体の生命を持たない。それらに執着することによって、それを長く留まらせてしまうのだ。」

◆ 「心が執着することからも拒否することからも自由なとき、怒りを怒りとして、欲求を欲求として見ることができる。「見る」や否や、心のプロセスは「見ること」に関心を奪われ、その瞬間に怒りは自然な死を遂げる。この見るということ、すなわち洞察は、般若と呼ばれ、練習したり訓練したりすることもできない内発的な気づきとして生じる。この気づきは、人生に新しい洞察をもたらす。行動の際の新しい明晰性、新しい内発性をもたらすのだ。 それゆえ瞑想は、人生とその日々の浮き沈みから切り離すことができない。この日常世界の中で平和を経験したいなら、怒りや欲求や無知をそれらが起こるがままに見、理解し、扱う必要がある。感情に巻き込まれることを止めたときにのみ、心の平和な本性が姿を現すのだ。この平和な本性が、人生の瞬間瞬間を完全に生きることを可能にするのだ。この新たに発見された理解と気づきによって、より優れた感受性をもった完全な個人として生きることができる。あなたは、人生を新たな新鮮な知覚によって眺めることになるだろう。不思議なことに、かつて問題として感じられたことがもはや問題ではなくなるのだ。」19

 ※「心が執着することからも拒否することからも自由なとき、怒りを怒りとして、欲求を欲求として見ることができる。「見る」や否や、心のプロセスは「見ること」に関心を奪われ、その瞬間に怒りは自然な死を遂げる。」  最近PCせんにんさんが掲示板に「ヴィパッサナー瞑想では、喜びの体験も自分が作り出した妄想として切り捨てていかなければならないのか」という質問をされていた。  ヴィパッサナー瞑想の優れたところは、喜びであろうと怒りであろうと、それに執着するでも切り捨てるでもなく、「見る」ことなのだろう。  「見る」ことによって結果的にその感情は、消えていくかもしれないが、それは見ないで抑圧することとは全く違う。「見る」、とくに言葉によるラベリングでサティするとき、感情を言葉によって表現して自覚にもたらしている。それはまさに抑圧とは逆のことだ。 

◆「歩いている、坐っている、風呂に入っている、掃除をしている、花を見ている等、その瞬間にしている何にであれ、マインドフルであるようにしなさい。これはいつでもどこでも出来る。心を集中する訓練をするなら、心が次第に乱されなくなることがわかるだろう。継続するならやがて、思考や感情が生じるときにそれらにマインドフルであることができるだろう。  たとえば運転をしているときには、運転に注意を払わなければならないだろう。心は運転している即今即処にいなければならない、道路に集中し、別のドライバーを見るというふうに。あまり他の思考に心を乱されている余裕はない。それは何か手持ちの仕事において瞑想しているのと似たようなことだ。しかし、こうした集中の仕方で別の仕事を行うことは、なかなかできない。」

◆ 「(なぜ出来ないのか) 多分、ドライブより危険ではないからだ。しかし、他の活動にもドライブの時と同様の原理を適用できる。食べているとき、心が乱れていれば、食べ物の味にすら気づかないないだろう。それを楽しむなどなおさらである。食べることに集中する時にのみ、食べ物を本当に楽しむことができる。  受動的な活動についても同様である。バスに坐っているとしよう。心がさ迷うにまかせるのではなく、あなたがいる場所にただ、い続けるようにせよ。あなたの周囲のものに集中するように心を訓練せよ。車中の他の人々、バスの速さ、バスがどこに向かっているかに注意を向けよ。これが瞑想を始めるとてもよい方法なのである。心がさ迷うに任せるのではなく、あなたのいるところにただいよ。」

 ※ 「あなたのいるところにただいよ」というのは、本当にシンプルだけど、それがいかに難しいかは、瞑想をすればするほどよくわかる。  あまりにシンプルで、日常の中で途切れることなくそれを続けようとする意志をもち続けることすら、なかなか大変だ。  しかし、つまるところは、この単純なことを倦まずたゆまず続けていくほかないのだろう。

◆(瞬間瞬間にマインドフルであろうとしてきたけれど、それは困難で、すっかり当惑してしまった、という質問に対して)

「瞬間に留まるとは、比ゆ的な表現なのです。厳格にしたがわれるべき戒律ではないのです。これは熟達度のテストではありません。このことは最初から理解しておかなければなりません。そうしないと、一日のどの瞬間も一生懸命やろうとしすぎて、混乱してしまうでしょう。   瞬間に留まることにあまりに巻き込まれすぎると、生活の術、自由な流れという術を見失うでしょう。」

◆「瞬間に留まることは、心の古い習慣をこわすための手段にすぎないということを認識しなければなりません。ふつう心は、現在、過去、未来についての思考と感情との間をふらついています。瞬間に留まるということは、心がふらつくことを止めるための訓練に過ぎないのです。 ☆一日のすべての各瞬間に留まるということが重要なのではない。 重要なのは、心がいつもうろつきまわることから脱出し、より焦点づけられ、 地に足がつくことなのである。 心が放浪する習慣をひとたび打ち破るならば、あなたはより中心づけられ、より現在の瞬間あることを見出すでしょう。」

 ※確かに、一日すべての時間を今に留まることはとても出来ない。様々なことを考えることは必要なであり、それをしなければ生活や仕事に支障をきたす。  今の私にとっては、いくつかの一定の作業でしか、今ここに留まる瞑想はできないが、そういうものを少しでも増やしていくようにするというのが、大切だ。  

◆(今の瞬間に留まることで何を得られるのかという質問に対して) 「これは、非常に適切な質問です。もちろんあなたは、より集中できるようになりますが、しかし瞑想の技術を学ばなくとも集中を成し遂げることはできます。ゴルフやチェスや読書等、多くの活動が瞑想を高めます。しかし、マインドフルだけでは充分ではないのです。それはたんなる手段にすぎません。重要なことは、あなたのマインドフルネスの中に落ち着き、つまりupekkha(平等である心)を取り入れることなのです。」

◆ 「マインドフルであるだけでは充分ではない。それは手段に過ぎない。大切なのは、マインドフルネスのなかに平静さ、つまりupekkha(平等である心)を取り入れることだ。心を静けさに導く唯一の方法がupekkhaなのだ。upekkhaは、たんに瞑想訓練の産物であるのではない。それ自身が瞑想の手段なのだ。もし自分自身の心、思考、感情を「平静さ」(upekkha)をもって見ることに上達したならば、このupekkhaの態度は、生活のほかの領域にも流出するだろう。あなたは、upekkhaをもって聞き、見、感じ、そしてすべてに係わりはじめるだろう。 ☆たんなるマインドフルネスや集中だけでは、瞑想はなりたたない。平静さがつね に共になければならない。」

◆「upekkhaは、ときどき超然性(detachment=無関心)とも訳されるが、この訳は非常に不適切だ。upekkhaは、超然性(detachment)も愛着(attachment)も共に超えているものと理解されなければならない。あなたが超然としている時は、あなたが注意していない状態なら、無関心になってしまうかもしれない。この無関心は、微妙な拒絶にもなりうる。upekkhaは、愛着のなさを超えているだけではなく、拒絶をも超えている。心は非常に巧妙であり、気付く必要のある多くのニュアンスを含んでいるのだ。 ☆upekkhaのエッセンスは、愛着も超然性も超え、好き嫌いも超え、あるがままの 事物にかかわることだ。  それゆえ、マインドフルネスは、そもそものスタートからupekkha、非二元的な中道を基盤にして始められなければならない。もし、世界やあなたの心やあなた自身をupekkhaをもって見ることができるならば、あなたはすでに正しい瞑想の途上にあるのだ。」 

◆ (ときどき大混乱に陥り、それにすっかり心を奪われてしまうという質問に対して)  「もしマインドフルネスが充分に強力なものでなければ、かんたんに大混乱に陥ってしまうだろう。私が語っているマインドフルネスは、あなた自身の心についてのマインドフルネスである。もしあなたが、混乱についてのあなたの思考や感情に気づいていないなら、混乱に反応してかんたんに状況中の相互作用の渦に滑り落ちてしまうだろう。起こっていることを知る前に混乱の嵐に突入して、さらに混乱を増長していまうのだ。 ☆外部の混乱だけに気づいているのではなく、立ち止まってあなた自身を覗き込み、そこにあるものを見なさい。」

◆「あなたは、どこかからスタートしなければならない。内側に沈黙がないかぎり、あなたはいつも外側の大混乱とともにジェットコースターに乗っていてることになるだろう。 ☆直接あなた自身を見るということは、あなた自身の源に戻るということであり、内なる静寂と沈黙に達するということである。外側の混乱を客観的に見ることができるのは、この内なる静寂からだけである。」

◆「ひとたびこれ(内なる静寂)が成立すると、あなたは混乱を混乱として、たんなる周辺の状況として、見ることができる。混乱の背後にある原因を見ることができ、それに応じて行為することができる。つまり、混乱の核心にまで至れば、あなたはそれを状況にとって最良の方法で自然に解決することができるだろう。これが、核心を貫く洞察的な英知、つまり般若なのだ。」

◆ 「われわれは、知性によって物事に対処することに余りに慣れすぎているので、どのような状況にも概念化をせずに対処することは全く不可能に思える。‥‥逆説的だが、概念化がまったくストップしないかぎり洞察すなわち般若の知恵は生じない。混乱した状況においては、混乱についての概念化をやめたときにのみ洞察が生じるのだ。われわれの心のマインドフルネスは、われわれが通常行っている概念化を事実上止めるのである。マインドフルネスが充分に強く、心に全幅の沈黙があるならば、当面する状況に対する最善の方法がおのずと生ずるのだ。」


霊性への旅

臨死体験も瞑想も気功も、霊性への旅、覚醒への旅・・・

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