以下は、明治時代の著名な禅僧・今北洪川の体験である。 愛宮真備『禅―悟りへの道 (1967年) 』 より収録。
「ある夜、座禅に没頭していると、突然全く不思議な状態に陥った。私はあたかも死せるもののようになり、すべては切断されてしまったかのようになった。もはや前もなく後もなかった。自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。私が感じた唯一のことは、自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされているということであった。無限の光りが私の内に輝いていた。しばらくして私は死者の中から甦ったもののごとく我に帰った。私の見、聞き、話すこと、私の動き、私の考えはそれまでとはすっかり変わっていた。私が手で探るように、この世のもろもろの真理を考え、理解し難いことの意味を把握してみようとすると、私にはすべてが了解された。それは、はっきりと、そして現実に、私に姿を現したのであった。」
あまりの喜びに私は思わず両手を上げて踊りはじめた。そして、突然私は叫んだ。『百万の経巻も太陽の前のローソクにすぎない。不思議だ。本当に不思議だ。
こうした事例からもわかるように、禅の悟りの境地においては、自己と世界は融合し、我と汝、自と他、主体と客体、個と全体などという二分法的、概念的思考(分別知)は、超えられてしまうという。
自己を超えた「大いなる命」こそが真の実在となり、個人はたんなるその一表現体のようなものに相対化されて実感されるといってもよい。禅の言葉でいえば、「天地と一体・万物と同根」である。
それは、マズローのいう「自己実現人」の、「多くの二分法、両極性あるいは矛盾、葛藤が統一され、融合され、超越され、解決される」、「対象や世界と渾然一体と深くつながるようになり、以前には自己でなかったものとも融合する」という特徴と同じであろう。
今北洪川が、「自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。私が感じた唯一のことは、自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされているということであった」と表現するのも、自己と世界が融合する体験の一種だろう。
われわれが「これが私だ」と思っていた通常の自我が空じられて無我となった時に「物我一如」の新しい自己にめざめる。「自己がないとき、逆にすべてが自己となる」という体験である。禅者・秋月龍みんによれば、「悟り」とは、そのような「平等一如の自己」が、体験の上に自覚されることである。
◆今北 洪川 イマキタ コウセン 1816~1892
(生年月日)1816.7.10(文化13) (没年月日)1892. 1.16(明治25)
(出身地)大阪府
(来歴)幕末・明治前期の禅僧(臨済宗)。
鎌倉円覚寺派元管長(白隠禅師より8世)
明治時代を代表する禅僧で、鎌倉円覚寺初代管長をつとめ、 在家者の居士禅を盛んにした。
鈴木大拙の師であり、最も尊敬した禅僧であった。大拙は、学生時代,円覚寺の今北洪川 (こうせん),釈宗演 (しやくそうえん) に参禅,大拙の道号を受けた。
鈴木大拙禅選集〈新版〉 10「今北洪川」で鈴木は、その生涯と高徳を深い敬慕の念をもって語る。激動期の明治仏教をみるに不可欠の名著。
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