気・「もの」から「こころ」へ(Ⅱ) b

5.様々なレベルの「気」

 筆者自身が、「気」の質やレベルという問題に興味をもつようになったのは、医療気功で活躍するある気功師が主催する医療気功師養成のための講座(一週間合宿制)に参加したのがきっかけである。その気功師の放射する「気」を受けていると、多くの場合その「気」の波動に促されるようにして自然にからだが動き始める。いわゆる「自発功」である。その動きは、その人の病気を癒すためにもっとも適したものかもしれず、あるいはその人の心身の「しこり」を解くためにもっとも必要な動きなのかもしれない。個々の人によってかなりの差はあったが、合宿の3日目、4日目と経過するにしたがって次第に動きは大きくなり、さまざまな形で出るようになった。ときには激しい嗚咽や叫びを伴うこともあった。

 たとえば合宿4日目の夜、一番大きな動きを見せたのは20代前半のある男性だった。彼は横になったまま文字どおりのたうちまわった。バネが弾けるかのようにドタンバタンと音をたてて飛び跳ねた。その動きは翌日の昼のセッションまで続き、夜のセッションになると不思議と静まっていった。

 また20代後半とおぼしきある女性は、合宿4日目の夕方、かなり目立つ動きを見せた。私自身の動きが止まり、目をあけて周囲を見まわすと、緑色のスポーツウェアを着たその女性は仰向けになったまま、何かを求めるように苦しそうに手を前にかざしていた。額に汗をにじませ、「苦しい、苦しい」と叫びながら、もがくように手をさしのべる。その講座を主催する気功師が来て、前から後ろから気を送る。彼女は目を閉じたまま空(くう)をまさぐるようにして「何か青いものが見える、青い光が見える」と叫ぶ。一時落ち着いたが、しかし再び「ああ、手がしびれる」とおびえたような声をあげ、苦しそうに、救いを求めるかのようにその気功師にしがみつく。そのうち、苦しそうな表情も消え、何かが去ったかのように落ち着いたのである。

 おそらくこうしたプロセスを通して彼女自身のなかの何ものかが「浄化」されていったのだろう。その次のセッション(4日目夜)から彼女の動きはすっかり穏やかでやわらかいものになっていった。しかもその夜、彼女の手から気が出始めたのを周囲の人々が確認したのだ。程度の差はあれ、似たような光景はあちこちで見られた。仰向けになって激しく泣き続ける人。畳に自分の手を強く打ち続ける人。中腰になって踊るように両手を動かし続ける人。そんななかを気功師は忙しく動き回り、気を送り続けたのである。そして、この4日目あたりから多くの参加者が、手に何かピリピリするものを感じたり、手のひらが赤まだらになっているのを発見したりした。手から気が出ている感覚をつかみ始めたのである。

 この合宿全体を通して筆者がもっとも強烈な印象を受けたのは、そこで幾つかのレベルでの「浄化」がいっきに進行していくということであった。幾つかのレベルとは、第一に身体的レベル、次に精神的レベル、そして最後におそらくは霊的レベルでの浄化である。たとえば、かつて結核を患ったひとが、一時的に咳きこみ、それによって、からだに残存する「しこり」がとれたとすれば、それは身体的レベルの浄化であろう。オーストラリアから来たある女性は、試みにこの気功師の気功を受けたとき、こどもの頃の感情が次々に出て来たという。それは精神的レベルでの浄化であろう。しかし実際には、これらのレベルが混然となって浄化が進行するのかもしれない。彼は、こともなげな表情でそれを行う。この気功師の気を受け、揺れたり泣いたりしながら浄化されていく人々を見て、彼が、身体的・精神的・霊的という全てのレベルでの強烈なるセラピストであるという印象を強くした。そして、この合宿でこの気功師がもっとも力を入れるのが霊的なレベルでの浄化なのだ。

 「気」と霊的な問題とのかかわりについては稿を改めて論じるつもりだが、ともあれ筆者は、こうした様々なレベルでの「浄化」をなし得る、そういうレベルの「気」を発する気功師もまた存在するのだということを実感し、体感したのだ。


 6 「気」の質と波動

 個々の気功師たち自身は、「気」の質の差という問題をどのように自覚しているのだろうか。たとえば秦渝生(しんゆせい)という中国人気功師は、実際の治療の場面では相手によって「波長」を変えて、その人にあった「気」を出さないと治療効果は上がらないという。テレビのチャンネルを変えるように七チャンネルくらいに「気」の性質を変えて治療しているようだ。

 また、西洋医学の医者であり、気功による治療も行う西山宗之氏は、この秦渝生に指導を受けたのがきっかけで、硬い「気」、柔らかい「気」、中間の「気」と三つのチャンネルにわけて「気」を発し、治療することができるようになったという。(西山宗之『絵で読む最新気功法』光文社)

 「硬気功(武術気功)の気功師の前に立つと、少し敏感な人なら、その全身から何か冴え冴えとた鋭い気を感知するだろう」と、軟気功(医療気功)との質の違いを指摘するのは、医療分野や気功等をテーマとして活躍する、あるノンフィクション作家である。(旭丘光志『医療気功の衝撃』さわやか出版社) 実をいうと、硬気功と軟気功の「気」の質の違いについては、ある程度科学的な測定によっても確かめることができるようだ。

 気功師が気功を行ったり、「外気」を発したりしているところをサーモ・グラフィーで測定すると体表面温度が変化することが確認されている。多くの気功師の場合、体表面温度が上がり、しかも、手なら労宮、合谷などのツボの部分から徐々に温度上昇が広がっていく。

 しかし一方には「気」を発しているときに体表面温度が下がるタイプの気功師もかなりいるようだ。中には一人で「上がる」タイプ・「下がる」タイプと両方の「気」を発することのできる気功師もいるという。そして一般的には、医療気功は「上がる」タイプ、武術気功は「下がる」タイプが多いらしいのである。(もちろん、これには例外もあり、たとえば前節で触れた気功師は医療気功師だが「下がる」タイプに属する。)

 さらに、気功師たちによって放射される遠赤外線には、ある独特の振動波形があるという。しかもこの振動波形には気功師によって微妙な、あるいは歴然とした違いがあって、たとえば医療気功の気功師の振動波形は「穏やかな正弦波形」を描き、一方武術気功の気功師の場合は、「スパイク状の鋭い波形」になることが多いという。この点は、まだ充分なデータをもって指摘できるまでにはなっていないようだが、しかし武術気功と医療気功のあいだに何らかの質的な差異があることは確かだろう。

 また、気功師一人一人が、遠赤外線の振動波形においてそれぞれ相違しており、さらに同一の気功師においても、その健康状態や精神状態によって違った波形が出るという。こうした波形の違いが「気」の質の違いに何かしらかかわりを持つのはおそらく確かだろう。ただし、それがどうようなかかわりなのか、断定的なことは今とのところ何もいえない。(町好雄『「気」を科学する』東京電機大学出版部)

 

 7.エネルギーと波動情報

 ところで遠赤外線は、気功師だけではなく「気」を出せない普通の人の手からも放射されている。すべての物質は、絶対零度(マイナス273度)でないかぎり、その温度に対応した強さの赤外線を放射しているからだ。ところが普通の人の手から放射される遠赤外線は、気功師のそれと違って振動波形は見られず、なだらかな一本の線のようになっていて、出力はほぼ一定しているという。

 熟練した気功師の手から放射される遠赤外線には普通人にはない波形があるが、東京電機大学の町教授はそれをAMラジオの振幅変調に比している。AMラジオの場合、音声電流の波形の変化を、高い周波数の電磁波の振幅の変化に変調させることで音の情報(=シグナル)を放送局から送り出している。これが振幅変調(=AM)と呼ばれるものだが、気功師が放射する遠赤外線にもちょうどこの振幅変調とおなじ仕方で何らかの情報が乗っているというのだ。事実、気功師が手の動きを止めた状態であっても「気」を放射し始めると、それまで平坦であった出力が変動しはじめ、およそ1秒に1回ぐらいのゆるやかな周期で規則的に振動する波形となったという。高周波である遠赤外線が、ゆるやかな周期(1ヘルツ前後)のシグナルの波形で変調されて振動している、つまり遠赤外線にシグナルが乗っていると考えられるのだ。(同上)

 いっぽう、気功師が「気」を発しているときの遠赤外線のエネルギー量はごく微弱なもので、500ワットの赤外線ストーブの一千万分の一のエネルギーに過ぎないという。 つまり、普通の人と気功師との間に出力の差が多少はあったとしても、放射されるエネルギーとしては五十歩百歩で、このエネルギーでは少し離れた相手を「気」で直接暖めると考えるのはとても難しいというのだ。(この点、前号で触れたような、一部の気功師が示す驚くべき電磁気的な現象から推察される「外気」のエネルギー量とはうまく整合しないが、今はこの問題には触れない。) 

 そこで「外気」を一種の「情報=シグナル」としてとらえる説が登場する。たとえば、気功師の放射する遠赤外線の独特の波形に、もし生命活動を活性化する情報がふくまれていれば、それが引金となって、「気」を受ける側に隠されていた生命力や自然治癒力が働き出すという説である。この説は中国でも主張され、町教授も、自らの実験データに基づいて同様の説を主張している。つまり、「気」の働きの本質は、そのエネルギーとしての側面にあるのではなく、その波動に含まれた「情報=シグナル」の側面にあるらしいというのだ。

 この「情報=シグナル」伝達説は、「外気」を人間相互の作用にかぎって説明する場合にはある説得力をもつが、その範囲を超える場合には充分な説得力があるは言い切れない。たとえば町教授の説では、「気功師から送られてくるエネルギーは微々たるもので、気を受けた人がその微々たるエネルギーで直接体表面温度が上昇したり体を動かされるとは考えにくく、シグナルがいったん脳に伝わり、脳の中で情報処理されて自律神経に作用し、本人の意志に関係なく体表面温度が変化するのではないかと考えられ」るという。この説は、同じ町教授や、日本医科大学の故・品川嘉也教授による脳波の研究によっても間接的に補強される。その研究によれば、気功師が気を集中するとその脳波が変化し、受け手にもそれと全く同じ変化が現れる、すなわち気功師と受け手の脳波が「同調する」というのだ。

 しかし、シグナルが脳を中継して伝わるというのなら、脳のような高度な情報処理機能をもたない植物や微生物の場合はどう説明すべきか。ある種の波動による生体相互の直接的な同調作用が「気」なのか。さらに「気」が物質に作用する場合にはどう考えるべきか。たとえば「外気」による電気伝導率の変化は、何らかのエネルギーの直接的な介在を考えずに、どのように説明できるのか。もし水の電気伝導率の変化や「気功水」の生体への効果をも波動情報で説明しようとするなら、水が波動情報を記憶する(たとえば遠赤外線や超低周波の振動波形を記憶する)未知のメカニズムを仮定するか、あるいは既存の科学では捉えきれない「未知のエネルギー」を仮定するほかないだろう。

 また、多くの気功を愛する人々が、毎日の気功実践のなかで自分の手から手へ、あるいは体内を任脈から督脈へ、さらには自分の手から相手の患部へと、確実に伝わっていく「気」の流れを、一つのエネルギーの流れとして感じとっているのも否定しがたい事実だろう。手のひらから放出する「気」は、何らかのエネルギーとして確実にそして直接に患部に伝わり、熱感や風圧に似た感じや何かが通り抜ける感じを受け手に与えているのだ。これも「気」を実践するものが日常的に知っている経験的な事実だろう。

 結局、「気」の働きの本質を「情報=シグナル」の伝達作用にみる説だけでは「気」という現象のすべてをうまく説明することができない。「気」の働きの本質を既知のエネルギーとして把握する場合でも、波動に乗った情報として解釈する場合でも、そのいずれによっても結局「気」の全貌は捉え切れないのだ。

 とすれば「気」を既知のエネルギーで説明しようとせずに、従来の科学にとっては未知の、ある種の「生命エネルギー」として捉え、既存の知の枠組に囚われない開かれた態度でこの現象に接していくべきではないのか。そして、たとえば遠赤外線なり超低周波の音波なり磁場なりの、ある種の振動波形が、「気」という未知の「生命エネルギー」を呼び寄せたり、引き込んだりする「媒体」として機能していると仮定してみたらどうか。この場合「生命エネルギー」とは、生命体が生みだすエネルギーという意味ではなく、「ある種の生命にも似た全体性、有機体的な統一性を持ったエネルギー」という意味で捉えるべきである。そしてさらに、個々の振動波形の違いによって、呼応し引き寄せられる「気」の質もまた違ってくると仮定してみたらどうか。 

 以上のような「仮説」は、既存の自然科学の枠組から見れば何を説明したことにもならないかも知れない。しかし、こうした「未知のエネルギー」を一つの解釈の可能性として認める開かれた態度を保持しないかぎり、「気」という膨大な広がりをもった現象の全貌は見えてこないのではないか。

 

8.終わりに

 さて、これまでに話は「電気感受性人間」と気功師とが引き起こすさまざまな現象の比較(前号)から始まって、「気」の質やレベルの問題、その波動性の問題にまでいたった。こうした話題を論ずるにあたって筆者は、かなりおおざっぱな予測あるいは仮説を自分なりに前提としていた。その仮説とはどのようなものか、これまでの話を振り返りながら語ってみよう。

 「電気感受性人間」と気功師とが引き起こすさまざまな現象のあいだには無視できないほど類似した面があると同時に、根本的に相違すると思われる面もあった。この二面性はどこから来るのだろうか。「電気感受性人間」の場合、彼らが何かしら電気的なエネルギーを発することがあったにしても、そのエネルギーは物理的あるいは無機的なレベルに留まっていて、「生体」とうまくそりが合っていない。それは、たとえば静電気を多量に溜めこんでは不快感に悩まされるといった例にも見られる。

 これに対して気功師が体の内外に巡らすエネルギーには、何かしら質的な違いが見られた。その違いは、「生体」によってうまくコントロールされるという点、「生体」の健康にプラスに作用するという点、また「生体」に快感として感じられるという点などであった。つまりこの未知のエネルギーは、本来「生体」が持っている自己の生命を維持するという働きと一体化して、その目的を満たす方向で働くという側面をもつ。その意味では、単なる物理的なレベルを越えて「有機体的」ともいえる統一的な作用を示すといえそうだ。結局「気」というエネルギーは、一方で電気的・磁気的な現象にかかわりながら、他方で「生体」と一体化して有機体的な全体性をもって作用するという不思議な幅をもった未知の「生命エネルギー」だと把えることができるだろう。

 その場合、電磁気的なな現象と「気」とのかかわりをどう捉えるのか。一つの可能性として、電磁気的な現象のもつある種の振動波形が、「気」という未知の「生命エネルギー」を呼び寄せ、引き込む「媒体」として機能しているのではないかという解釈も示された。

 いずれにせよ、実際に私達が「気」を「気」として実感するのは、「有機体的な統一性をもって作用する生命エネルギー」という側面においてであろう。気功を日々実践するものは、練功中に「気」が内気として心地よく体内を巡るのを実感し、また外気治療ができるようになれば、自分の意識のもち方次第で「気」が手のひらから患者に流れていくのを実感する。「気」が実体として感じとられるのは、このように個々の「生命」に即した「統一的な生命エネルギー」としてである。にもかからわずそれは科学的な測定によって検出される要素をもち、また不思議なサイ現象にもかかわりをもつ。

 そこで筆者の予測あるいは仮説とはこうだ。

 「気」という膨大な広がりをもった現象は、その物質的な最基底層においては、電気的・磁気的な現象を包み込んでいる。その場合、何らかの波動性が、「気」と電磁気的な現象とを結び付けるうえで重要な働きをなしている。  こうして「気」は、電気的・磁気的な部分と密接にかかわり、それを包み込みながら、さらに有機体的な統一性をもった「生命エネルギー」のレベルに及んでいる。それは既存の科学にとっては未知のエネルギーであり、エネルギーであると同時に、何らかの波動情報によって機能するという二重性をもつ。

 こうした二重性を保ちながら、次第に「気」はその情報性の側面を強めて、最終的には精神的とか霊的とかいうほかないレベルにまで連なっている。

 文字どおりに「もの」から「こころ」までの広がりを持っているのが「気」なのだ。しかも、「気」において物質的な働きと心的な働きは不可分に結びついていて、「気」のもっとも物質的な働きすらも何かしら心的な次元を考慮に入れないかぎりうまく説明できない。

 こうした捉えかたはもちろんひとつの仮説に過ぎないし、近代科学の枠組のなかでは決して容認できない仮説だろう。しかし、「もの」のレベルから「こころ」のレベルに至る次元が密接にからみあい、つねに重層的に機能しているのが「気」だという仮説に立って迫っていかないかぎり、「気」という膨大な現象の全体像はけっして見えてこないだろう。こうした仮説を前提としたうえで、「気」にまつわる様々な現象を出来るかぎり広い視野に立って整理していくことが筆者の今後の課題である。


霊性への旅

臨死体験も瞑想も気功も、霊性への旅、覚醒への旅・・・

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