気・「もの」から「こころ」へ(Ⅰ)では、「電気アレルギー」とよばれる人々が引き起こす驚くべき電磁気的な現象について語った。電気器具に触れるだけでそれを壊してしまったり、逆にはじき飛ばされたり、あるいは指先から閃光を発したりといった現象である。これらとかなり類似した現象は、一部の気功師たちも引き起こしており、「気」と電磁気的現象とが何かしらかかわりをもっていることを暗示している。今回は、「気」と電磁気とのかかわりをもう少し別の視点からさらに追及し、それと同時に気功師が発する「気」は、単なる電磁気的な現象としては捉えきれない様々なレベルに及んでいることを確認していこう。
1.皮膚の電気抵抗と「気」
周知のように中国医学では「気」の流れる道を経絡とよび、経絡は人体の内部や表面にくまなく走っていると主張する。また、その経絡上の体表面にあって「気」の出入り口になっているのが経穴(ツボ)である。経絡やツボの存在はある程度は実験的に証明されている。
ツボが皮膚面の他の部分と区別される点として、皮膚の表面温度や皮膚の電気伝導率が知られている。ツボとよばれる部分の皮膚温は、そのまわりの皮膚の温度より高いか低いかの差を示す場合が多いとされる。またツボにあたる皮膚の電気伝導率は、そのまわりの皮膚の伝導率よりも高い、つまり電気を通しやすいとされる。京大の故中谷義雄博士は、この皮膚の電気伝導率が高い部分を「良導点」とよんだが、それらは昔から伝わる経穴図(ツボ配置図)の位置とおおよそ一致したという。
さらに博士は、さまざまな臓器を病んでいる多くの患者の皮膚面の電気抵抗について調べていった。その結果、電流の通りやすいルートが手と足にそれぞれ六本づつみつかり、それらが伝統的に知られる「十二経絡」とかなりよく対応していることがわかったという。この発見は大きな反響をよび、それ以来日本の多くの研究者たちが、この皮膚電流測定法に注目し、研究した。
こうした研究にはもちろん批判もあった。たとえば、「メビウス身体気流法」の坪井繁幸氏はいう、
「微弱電気を測定して、ツボや経絡の証明とする人もいるが、果たして〈生命の流れ現象〉を電気現象に置換して事たりるのか? 電磁波を万能とする発想は瞑想を脳波に還元して事たれりとするのに似ていよう。電磁波は生命現象の一つであっても生命現象のすべてではない筈だ。」(坪井繁幸『メビウス身体気流法』平河出版社)
確かに、〈生命の流れ現象〉である「気」を電気現象に置換しただけでは、それについて何も説明したことにはならない。筆者もそれには同意する。経絡やツボの電気伝導率が高く、電流を通しやすいという事実から少なくとも確実にいえることは、さしあたり「体内および体表において電気の通りやすいところは『気』もまた通りやすい」ということだけあり、それ以上のことではない。
しかし、それだけでも電気と「気」との何かしら深いかかわりが印象づけられるのは事実だろう。前号で触れたような、気功師が引き起こす電磁気的な現象と考えあわせるとき、その印象はさらに強くなる。大切なのは、電磁気的な現象と「気」とが重なり合うらしい部分をけっして無視せずに、なおかつ、それに還元できない「気」という現象の膨大な広がりをも視野に入れることだろう。「気」の精神的側面さらには霊的な側面をも視野に入れてこそ、「もの」から「こころ」へと広がる「気」の全貌が見えて来るのだろう。
00/4/16追加
2.「電気功 」
さて、電気と「気」とのかかわりをさらに強く印象づける、別の例をいくつか挙げてみよう。気・「もの」から「こころ」へ(Ⅰ)では、人体が発する「気」で蛍光灯がついたり、放電現象に似た光りが発せられたりした例に触れたが、逆に気功師が自分の体内に強い電流を通すという例もある。
中国・西安は華清池の気功師である金殿山は、長年のさまざまな気功訓練の結果、普通の人間には耐えられないはずの高圧の電流を体に流すことが可能になったという。たとえば、日本の家庭に来ている電圧の約二倍にあたる220ボルトの電流を体に流しても平然としている。実際に体に電流を流したうえで手に裸電球を持つとその電球に明るい光りが灯る。(普通の大人だと100ワット電球を流れる電気の四分の一程度を一秒間浴びただけでひとたまりもない。)さらにこの気功師は、自分の体に流れた電流の電圧を体内で変えて出力することのできる「人間変圧器」なのだ。たとえば、220ボルトの電流を30ボルトほどに変圧してそばの人の手に流したりすると、それでも彼に手を握られた人はかなりのショックを受けたりする。
ただし、高圧電流を体に流せるのは特別の訓練を積んだ気功師だけにかぎられるわけではない。たとえば、ブルガリアの首都ソフィアには、普通の人なら死ぬような高電圧が流れている裸電球でも平気で扱える電気工がいるという。彼は、わざわざ電源を切らなくともすぐに家屋の電気工事に取りかかれるので、ヒューズ箱までの行き来を省略してしまう。『ブルガリア医学ジャーナル』誌のために行われたテストでは、彼の体には通常人より八倍もの電気耐性があることが判明した。「電気ショックなんて受けたことがない。ただくすぐったい感覚がするだけだ」と彼は言う。(ライアル・ワトソン、内田美恵訳『シークレット・ライフ』筑摩書房)
しかし、ただ自分の体に高圧電流を通すだけでなく、自分の体を通した電流によって人の治療を行うとなると、訓練を積んだ気功師でなければまず出来ないだろう。たとえば、「神医」とまで呼ばれ、超能力者としても著名な中国の気功家・厳新も、体内に高圧の電流を流すことが可能だというが、彼はさらに「外気」を出しつつ220ボルトの電流を36ボルト以下に下げ、それを患者の体に通して病気を治すとのことだ。1987年に彼は、9人のそれぞれ違った病気を持つ患者を並べて電気を通し、気功治療を行った。ともに並んだ患者たちの反応はそれぞれ違っていた。ある人は、熱を、またある人は寒気を、そして他の人々はしびれや痛みを感じたという。30分を過ぎてから患者たちに一定の効果が現れた。ある視神経をわずらう患者は「この治療によって長い間悩まされていた眼病が治療された」とのことだ。(『厳新気功学テキスト』ベースボール・マガジン社)
中国には、こうした治療を「電気功」と称し、継続的に治療を行っている病院もあるという。北京の萬寿路医院気功室がそれだ。テレビでも紹介されたのでご覧になった方もいるかも知れない。その方法は厳新が試みたのとほぼ同じである。220ボルトの電流が流れる電極を持った気功家が、もう一方の電極をもった患者に、その電流に乗せて気を送る。電気を使って送る気のパワーを増強しているということか。この医院の「電気功科」の欧陽木医師は言う、「私は電圧を調整した電気に気を乗せて、患者の治療をしています。現代医学の注射や薬などのような副作用は一切ありません。ツボから気を送りこみ、滞っている経絡の流れを甦らせるだけなのですから、私の電気功治療は絶対安全です。なぜなら私は電気をコントロールすることができるからです。」
つまり、コンセントから流れる電気は、患者の体に流れこむ前にこの気功医師の体内で変圧され患者に合うように調整されているというのだ。調整された電流および「気」は、患者の体に入るとき患者に軽いショックを与えるようだ。ただしそれは、感電のショックとはだいぶ違うという。またツボ以外のところに気功医師の手を当ててもショックは走らない、つまりツボ以外の皮膚面からは電気と「気」は体内にほとんど流れない。(日本テレビ『ワンダー・ゾーン』1993年3月1日放送)
なぜ気功師は、高圧電流を体内に流しても平然としていられるのだろうか。また体内で電流と「気」はどのようにかかわるか。気功師の体内で調整された電流は、あくまでも「気」を運ぶ媒体として機能しているだけなのか、それとも電気と「気」は混然一体となって統一的な「気」としての作用をするのか。今のところ筆者には、これらの問いに充分に答えるだけの準備はない。しかし、いずれにせよ「電気功」が示す事実からしても、「気」が皮膚や体内の電気抵抗の低い部分を、言いかえれば電気伝導率の高い部分を流れやすいのは確かだ。そこで「気」と電気伝導率の関係をさらに別の実験から考えてみよう。
00/4/16追加
3.水の電気抵抗と「気」
気功師が「気」をいれた気功水が病気に効果を示すといわれている。しかし、それがなぜ病気に効きくのかというメカニズムはほとんど何もわからない。ただ少なくともひとつ「気」を通された水が確実に変化したことを示す実験データがある。「気」によって水の電気伝導率が変化したというデータである。長年「気」の科学的研究に取り組んでいる、電気通信大学の佐々木茂美教授の実験である。
気功師に素手をかざしてもらって水に「気」をいれる。「気」を測る水には蒸留水を使う。この蒸留水には若干のイオンが含まれている。イオンが含まれるということは、電気を通しやすくなっているということである。この蒸留水に「気」を入れて、その電気伝導率の変化を見る。
するとPHは変化しないのに「気」をいれた水は、電気伝導率が増している。PHが変わらないということは、この気功水が酸性にもアルカリ性にも傾いていず、水中のイオンにもまったく変化がなかったということである。ふつうは、水中のイオンが多くなることで電気伝導率は増し、少なくなれば電気伝導率は下がるのである。「こうなると、水の中に『気』が入ったから、水の電気伝導率が変化したとしか説明がつかない。」(佐々木『気のつくり方・高め方』ごま書房)
また、同じく佐々木氏の実験で気功師が水に「気」をいれるとき、その気功師の皮膚に電気伝導率を測るための電極をつけてみた。電極をつけたのは経絡上のツボにあたる体表面である。すると、水の中に「気」をいれたときに起きた電気伝導率の変化と同じような変化が、経絡上の電気伝導率に見られたという。
つまり水の中の電気伝導率が増したとき、同じように経絡の電気伝導率も増したのである。(同上) なお、外気を放射している時にかぎらず内気功の訓練中にも、ツボの電気抵抗が下がり同時に電位が上がることが中国の実験でも確認されている。これは、むしろ気功訓練中の生理変化についての初歩的な研究に属するもののようだ。(張恵民『中国気功法』)
これらの事実からいえることは、「水においても人体の内部においてもある種の『気』が入ったり流れたりすると電気伝導率が上がる」ということである。(「ある種の気」と書いたのは、「気」がときには電気伝導率を下げてしまうこともあるからだが、この問題については後に触れよう。)
ところで、「気」で水の電気伝導率が上がれば「外気」を受けた患者の体内で同じことがおこっても不思議ではない。人体の3分の2は水分で成り立っているからだ。この事実は、ある程度「外気治療」の効果の説明にもなる。「外気」を受けることで患者の体内の電気伝導率が高まれば、「気」の流れもよくなるだろうからである。
先に触れたような高圧電流を体内に通しても平然としている気功家や気功医師は、気功の訓練によって、体内に強力な「気」を通し続けた結果、体内の電気抵抗を著しく低めたのだといえるのかも知れない。抵抗が少ないから高圧電流にも耐えられるのだろう。ともあれ体の内であれ外であれ「気」を通し続けることで水の電気抵抗は下がるらしい。
以上から少なくとも言えることは、「気」は人間の体内において電気伝導率の高いルートを流れやすいが、一方「気」が入ったり流れたりすることで逆に電気伝導率が高まるということである。しかし、だとすれば「気」と電気との関係とは何なのか。電気の流れやすいところは「気」も流れやすく、また「気」が流れると電気も流れやすくなるというだけのことで、両者はまったく異質な存在なのか。それとも何かしら重なり合う部分があるのか。
00/4/22 追加
4.生かす「気」と殺す「気」
気功師が「気」を入れた「気功水」は、電気伝導率が高く、それを飲むと体調がよくなるのは確かなようだ。低いものは飲むとかえって体調を悪くするらしいことからすると、水の電気伝導率を高めるものが質の良い「気」で、低下させるものが質の悪い「気」だといえるのかも知れない。
また、水に入れてもすぐに抜ける「気」もあれば、なかなか抜けない「気」もあるという。入れてから三日も四日も経てば「気」が抜けていてさして体に効果のないこともある。他方、何年もそのままの質を保つ「気功水」もたしかに存在するらしい。先にも触れた佐々木茂美氏は、中国の高名な気功師である趙偉氏から「気」をビーカーの中の蒸留水に入れてもらい、冷蔵庫の中にしまっておいた。冷蔵庫からふたたび取り出したのがそれから三年後、ビーカー内の水を36度の体温レベルに暖めたのち水の電気伝導率を測定したところ、三年前の測定値に戻ったという。つまり趙偉氏から出された「気」は、三年も同じ水の中にとどまっていたらしいのである。(佐々木茂美『気がもっとわかる本』ごま書房)
「気」の質やレベルの問題は、水の電気伝導率の高低やその持続力の問題に単純に還元できないかも知れない。しかし、少なくとも「気」に質的な違いやレベルの違いがあるらしいことは推測がつくであろう。「気」の質の問題をもう少し別の角度から見てみよう。
1981年、海軍総医院・中国免疫学研究センターの医師である馮理達女史は、培養中の大腸捍菌に対して次のような実験を行ったという。シャーレで培養された大腸捍菌に対して気功師に一分間「外気」を放射してもらい、それをその後さらに48時間培養した。その結果を観察すると、菌が50~90%も死滅するという驚異的なデータが得られた。次に同じ気功師が、「大腸菌を増やす」という意識を持って再度「外気」を放射し、同様に培養すると、今度はシャーレの中の菌は二~七倍にも増殖したというのである。(品川嘉也監修、中里誠毅著『気の挑戦』緑書房)
この実験結果は、かなり重要な意味を持っている。一人の気功師から放射された「気」が、大腸捍菌に対してプラスに作用しただけではなくマイナスにも作用したという点こそが重要なのである。この事実から推察できるのはつぎの三点であろう。一つは「気」に質的な差があり、一方では生命体の成長を促すこともできるが、他方では生命体を死滅させることさえ可能らしいこと。
次には、そうした質の差は人間の意識のあり方に密接に関係し、「気」の質を意識によってコントロールすることさえ可能らしいこと。そして最後は、たとえば瞑想や自律訓練法等によって、脈拍や血流や脳波その他自律神経系一般がコントロールされるのと同じように、いや、それよりももっと確実に「外気」は意識によってコントロールされるのでり、それゆえ身体と同じように有機体的に統合されたものとして意識にかかわっているだろうということ。その意味でやはり「気」は単なる電気的・磁気的現象には還元できない特性を持つといえることである。
さて、ここではさらに「気」の質の差が意識のあり方に密接に関係するらしいことを示す別の実験を紹介しよう。イギリスはマックギル大学のグラッドが、大麦の種を使って行った実験である。まず大麦の種子をオーブンのなかで「死にはしないが存分に損なわれる時間だけ」焼く。それらの種子はいくつかの植木鉢に分けてまかれ、毎日水がかけられた。使用された水はガラスびんに入れられ、「信仰治療師」がそのうちの一本を30分間手でにぎった。実験を開始して二週間たつと、治療師の手で処理された水をかけられた種子は、そうでないものよりも発芽数が多く、丈も高く、収量も多かった。ここでは「気」という言葉は使われていないが、治療師が水に手で施しを与えた作業は、「気功水」を作る作業とほとんど同じといってよいだろう。
この結果をもとにしてさらにグラッドは、治療反応に人間の個性がどれほど関係しているかを調べることにした。彼は、三人の異なったひとによって処理された水を使って、別の大麦の種子の実験をおこなった。その一人は精神医学的に「正常な男性」、もう一人は強い抑うつ的な「ノイローゼの女性」、三番目は妄想性抑うつ状態にある「精神病の男性」だった。その結果、「正常な男性によって処理された水で育てられた種子は、対照群の種子と違いがなかったが、抑うつ状態の患者が手で触った水を与えられたすべての苗木の生長は、大きく遅れた。」 (ライアル・ワトソン『スーパー・ネイチャー』牧野賢治訳、蒼樹書房)
この実験は、もちろん意識的に「気」を扱っているわけではない。しかし、「信仰治療師」が手で施しを与えた水が、いわゆる「気功水」と同様の働きをなしていることは確かである。事実、気功師の「気」を放射した「気功水」で育てた植物の方が普通の水で育てたものより成長が早かったという類の実験データはかなり多く積み重ねられ、疑い得ない事実になりつつある。
上の実験が果たして「外気」を扱っていたといえるかどうかと問うことはあまり意味がない。「外気」とは何かが未確定であり、いまのところ「外気」について確実に言えることは、人間その他の生命体に対して何らかの「働き」をなすということだけである以上、むしろこれら互いに類似した効果や働きを、とりあえず「気」という言葉でくくったうえで、様々に比較検討しながらその実体に迫っていくことこそ必要なのだろう。だとすれば「信仰治療師」や「患者」の手が水を通してなした働きも、気功師のなした働きと類似しており、しかも両者を区別する理由が他に見つからぬ以上、それらをともに「気」という言葉でくくっても、さほどの不都合はないだろう。
大切なことは、「信仰治療師」の手で握られたびんの水は植物を早く生長させる何らかの力をもったという事実であり、また、精神的に健康でない「患者たち」が手で触れた植物はその生長を遅らせたという事実である。これらの事実を、「気」の放射で大腸捍菌を死滅させたり増殖させたりしたという事実と重ね合わせるとき何がいえるだろうか。
一つは「気」に質的な差があり、その差が一方では生命体の成長を促し、他方ではそれを遅らせ、時には死滅させることさえあるという事実の確認である。さらには、そうした質の差は人間の意識のあり方に密接に関係することの別の角度からの確認である。別の角度からというのは、「気」の質の差が一人の人間の意識的なコントロールによってばかりでなく、個々の人間の、自分ではコントロールできないそれぞれの精神の状態によっても全く違ってしまうこともあるらしい、ということである。「気」の質は「精神」の質と密接に関係しているかも知れないのである。つまり、「気高い」心の持主から発せられる「気」は、それだけ高いレベルの「気」であるといえるかも知れないないのである。
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