2004/8/6から2004/8/15 まで、八王子で行われたグリーンヒル瞑想研究所の10日間瞑想合宿に参加した。この瞑想研究所での瞑想合宿参加は、今度で3度目になる。帰宅後ダイアリーに掲載して行ったものをここ にまとめて報告したい。
このレポートは、これまでの合宿レポートを踏まえて書いているので読んでいない方は、少なくとも初回のレポートをまず読んでいただければ幸いである。→2001年・10日間瞑想合宿レポート Ⅰ
グリーンヒル瞑想研究所については、以下のURLをご覧いただきたい。 http://www.satisati.jp/
1.心が静まらない(初日)
◆入山
八王子のグリーンヒル瞑想研究所の合宿に参加するのは、去年の正月以来1年半ぶりだ。三回目の合宿参加となる。今回の瞑想合宿もまたずしりと手ごたえのある体験となった。しかし、それは自分が予想もしなったような形での手ごたえであった。
午後2時集合なので余裕をもって午前11時に自宅を出て、途中新宿で昼食をとった。合宿中は瞑想に集中するため洗濯はしない。10日分の着替えやシーツ等を詰め込んだバックが肩に食い込む。前日までの仕事の疲れからか、やけにからだがだるい。改札を出て駅ビル内のレストランでスパゲティを食べた。この日からもう夕食はなく、以後食事量は、ふだんの2割以下になるが、これからの瞑想のことを考えると大食いする気にはなれない。新宿までの移動で少し疲れ気味なのは気になるが、小食に関してはこれまでの経験からまったく心配していない。むしろ70キロからどれくらい減量できるか期待していた。
京王線めじろ台駅からバスで10分。高尾山に近い、深い緑におおわれた公団住宅の一角に研究所はある。5分ほど遅れて研究所に入った。参加者は、今回も男性6人、女性3人の割合だ。10日間の合宿参加ははじめてという人が3人。私も含めてリピータが6人、今回はリピータの割合が多いとのことだ。
所長の地橋先生により、事務的な連絡も含めてオリエンテーションが始まる。オリエンテーションの最後には、歩行瞑想や生活瞑想の仕方について実地の指導。参加者一人一人がみんなの前で実際にサティ(気づき)を入れながら歩いたりドアを開け閉めして、先生のアドバイスを受ける。これ以降、歩行もトイレも食事も一切が瞑想として行われる。すべての動作を非常にゆっくりとサティを入れつつ行うのだ。私は、もちろんオリエンテーションの内容はだいたい分かっていた。心はすでに瞑想にある。この静かな環境のなかで早く瞑想したい。どんな瞑想になるか楽しみだ、そんな「期待」を胸にオリエンテーションを受けていた。
◆心が静まらない
同室の3人で寝具の準備をし、かんたんな打ち合わせをしたあとは、参加者間の一切の会話は最後まで許されない。いよいよ「期待」していた瞑想がはじまる。私はゆっくりやる歩行瞑想が苦手で、ふだんも本格的な歩行瞑想はほとんどしない。何はともあれ坐禅だ。
午後10時の消灯まで時間はたっぷりある。その間、順に回ってくる入浴時以外は、坐禅、歩行瞑想、立禅、喫茶などを自由に組み合わせて瞑想を続けることになる。私はまずは坐禅をしたかった。自宅で坐ってもそこそこの瞑想が出来るのだから、ここではきっと素晴らしく集中できるはずだ。ちょっとしたサマーディ体験が出来るかも知れない。ともあれ相当のレベルアップが期待できるぞ、そんな気持ちだったと思う。
坐禅をはじめ、しばらくしてあれっと思う。10分、20分たっても雑念がつぎつぎと湧いてきて、すこしも腹の動きに集中できない。心が静まらないのだ。いつものシーンとした脳の静まりもなく、サティも続かず、思考=妄想に振り戻されるだけだった。
2.盲点(2日目)
◆食事瞑想だけは
翌日(2日目)午前4時、先生が鳴らすチーンという鐘の音ともに起床。少し体調が悪いのか、かすかな頭痛。「頭痛」とラベリングできたかも知れない。布団をゆっくりと押入れに運ぶ。寝ぼけながらもかろうじて足の動きに合わせ「右」、「左」とサティを入れる。この日は私が掃除当番で、なんとかサティを入れながら部屋に掃除機をかける。
4時半ごろから5時10分の朝食まで坐禅。これまでの合宿では、朝一番の坐禅で澄んだサティが続くことが多かったので、「期待」したのだが、これもまったくだめ。がっかりする。
朝食の合図の鐘の音とともに、全員がゆっくり歩行瞑想しながら食堂へ。着いた順に各自サティしつつ食べ始める。私はまず味噌汁をゆっくり時間をかけて飲み干す。所長のご母堂が一人で毎回の食事を作ってくださる。そのうまさ。とくに、最初に味わう味噌汁が腹に沁みる。 この食事の光景を何も知らない人が見たらびっくりするだろう。全員が超スローモーションの映画のように恐ろしくゆっくりとお椀を持上げ、箸を運び、ゆっくりと口をあけ、‥‥という作業を黙々と繰り返しているのだ。心の中では「挙げた」「おろした」「あけた」「噛んだ」などとラベリングしながら。
私は、この食事瞑想が大好きだ。ひとつひとつの動作や食べ物への知覚に変化が多く、サティがしやすい。この日も、思考は少しは入るが、ほとんどの動作に連続的にサティが続いていく。坐禅時に妄想の団子状態になるのとは大きな違いだ。
しかし、朝昼二度の食事や、喫茶室での補給時のサティ以外、瞑想そのものはまったく集中もできず思考にもサティが入らず、心が静まらない。そんな状態で、地橋先生との第一回目の面接を迎えた。
◆盲点
グリーンヒル瞑想研究所の合宿の特徴のひとつは面接がきわめて充実していることだ。地橋先生が毎日、9人それぞれに小一時間ずつかけてじっくりとアドバイスをしてくれる。これに励まされて参加者は修行を深めていく。
私はまず最初に報告した、
「思い切り瞑想ができるぞとウキウキして期待してやって来たのに、まったく集中できないひどい状態でがっかりしている」と。
先生に聞かれた、
「で、その状態にどんなサティをいれていますか?」
私が「『がっかり』とか『期待はずれ』とかいうサティは入れています」と答えると、
先生は「期待しウキウキしてやって来た気持ちの方にはサティを入れましたか」と聞き返した。
この一言で私は、「参った、そうだった」と思い知った。ヴィパッサナー、ヴィパッサナーと言いながら、最初から私はヴィパッサナー瞑想のいちばん大切なところをどこかへ置き忘れていた。集中できない状態に対する否定的な気持ちには、とりあえずサティを入れていたが、研究所に入る前から胸に抱いていた「期待感」の方には、サティを入れるという意識すらなかった。
事実をあるがままに観察していくのがヴィパッサナー瞑想だ。すべての現象を公平に、等価に、自我による取捨選択なしに(エゴレスに)サティを入れ受容していくことに意味がある。それなのに私は、自分の「期待感」の方にはサティを入れておらず、したがってそれを対象化も、「自覚」化もしていなかったのである。来る前の日記には、「期待」と「自覚」に関係するような文章をしっかり書いていながら、このありさまである。本当に「参った」という感じであった。
先生は語った、
「自分にとっていちばん大切な気持ちというのは、多くの場合、盲点になっていてサティしにくいのです。自分のもっとも大切な気持ちには同一化してしまうので、一歩退いて対象化したり、自覚化したりがしにくいのです。」
さらにこうも語った、
「私も今は、偉そうにインストラクターをやっていますが、同じような失敗を何度も繰り返してきたのです。自分にとって盲点になるところだからこそ、指導者に指摘してもらわないとどうしても分からない傾向があるんです。ヴィパッサナー瞑想を学んでいくということは、ちょうど何度も転びながら自転車に乗ることができるようになるのと同じかもしれません。」
のっけから大きな学びとなる面接であった。
3.瞑想に拒否される(3日目)
◆瞑想に拒否される
最初の面接でハッと気づかされるような思いをしたのに、その後の瞑想はむしろ「最悪」だった。3日目も朝から坐禅はことごとく眠気におそわれ、腹に集中しようとすると、ほとんど夢のようなイメージ妄想に巻き込まれ、そこをさ迷ってしまう。その連続だった。「これじゃあ瞑想に拒否されているみたいだ」と心の中でうなった。坐禅はまったくお手上げ状態なので、午後は歩行瞑想を多くした。3階の歩行瞑想用の部屋に上がる。階段も足の感覚にじっくりサティしながら上がる。すでに二人が部屋でゆっくりと行ったり来たりしていた。 私も、足裏の感覚に集中しながら、ゆっくり「離れた」「移動した」「触れた」「着いた」「圧(力)」等とラベリングしていく。当然、足への集中が切れて思考=妄想が浮かぶことがある。そうしたら「思考」などとラベリングし、そしてまた足裏のセンセーションに戻っていく。その繰り返しだ。
しかし歩行瞑想もやはり、サティの入らない妄想の連続だった。ただ妄想の傾向については、ある程度気づきが入った。集中ができないこと、瞑想ができないことへのコンプレックスに関係する妄想がかなり多いのだ。もちろんそれに気づく度に「コンプレックス」等とサティを入れる。
坐禅はほとんどの場合、目を閉じて行うからか周囲の人たちの様子は気にならない。歩行瞑想は、目を開けたまま行うことも多いので、どうしても人の様子が見える。誰もが素晴らしい集中で静かに歩行瞑想に打ち込んでいるように見え、「それに比べて自分は‥‥」という劣等感も強くなった。
◆気に逃げる
夜もやはり「瞑想に拒否された」ままの状態だった。自宅で瞑想するときの、あの心地よい脳のバイブレーションもまったく出ない。それでついに思った、「気を入れてみようか」と。前回の合宿では、瞑想がうまくいかないと気の感覚に遊んでしまうところがあった。今回は、「気で遊ぶ」のはよそうと思っていた。しかし、あまりの瞑想のひどさに気の助けを借りたくなった。 座禅中に鼻孔と眉間から意識的に気をいれる。スーっと入ってくるはっきりとした感覚があった。この感覚で「あれっ」と思った。これまでの呼吸は、逆に気をほとんど入れていなかったのではないか。「気で遊ぶまい」と思ったために、無意識のうちに呼吸時の気の流入をかなり制限していたのではないか。
気を入れ始めると、腹にも気の重い質感が感じられ、腹の膨らみ・縮みがかなりゆっくりになる。やがて、気が出入りするときのかすかな抵抗感が消え、気がからだの内外を自由に通過しているのを感じる。呼吸がらくになった。それとともに腹への集中が深まり、持続した。しかし、集中が深まったと感じたのはその時だけで、その後の坐禅では、気を意識的に入れてもさして集中できない状態が続いた。
◆「拒否していのは自分でしょ」
3日目、2回目の面接では、最初に「今日も瞑想はまったくダメでした」と報告すると、先生に「何がどうダメだったんですか」と聞かれた。 私が少しとまどいつつ
「妄想が多く、まったく集中できないのです」と答えると、先生の表情が少し厳しくなったように感じられた。
「瞑想がよかったどうかの基準は、サティがどれだけクリアに入っていたかどうかですよ」
これも実に大切な言葉なのだが、このとき私は、その大切さを充分には分かっていなかった。最初の面接で、すべての現象を公平に、等価に、あるがままにサティを入れ受容することの重要性を気づかされていたはずなのに、依然として私は集中にこだわっていた。
私が「瞑想に拒否されているように感じた」と伝えると、先生は即座に
「拒否しているのは自分でしょ」と応えた。さらに、
「周囲の人と比較し、過去の合宿での自分の体験と比較してダメだと感じているのは、自分の頭の中の理想と比較して、ダメだと判断しているということでしょ。理想と比べてダメな自分をダメだと断罪するのは、ヴィパッサナー瞑想と正反対の姿勢ですよ。その状態やダメだと思う気持ちをそのままにサティしていない、あるがままのサティができていない。今の自分の状態を許せない気持ちが、眠気や散乱につながっているんじゃないですか」
私は、ここでまた「期待」と「自覚(気づき)」の問題に直面したのだ。
◆サティの空振り
私が、自分の状態にコンプレックスを感じ、それにサティしたと伝えると、
「そうサティしたことで、何がどう変わりましたか」と聞き返された。
「何も変っていません」と答えざるを得なかった。
先生は言う、「サティによって何も変化しなかったとすれば、それは空振りのサティだったからです。あらゆる角度から自分を見直して、別のラベリングを何度もしてみるとよい。そうすると、やがてぴったりくるラベリングに出会うでしょう」
心の状態を的確に言い当てるラベリングによって、自分の状態がつかみ取られるならば、その状態は受容され、受容されることで変化し消滅していくのだろう。私も、そうした事実があることは体験的に知っている。
まだ20代の頃、カウンセリングの体験学習のグループで自己表現をしていたとき、背伸びをして無理をしようとしていた自分の弱さを急に実感し、思わず「無理をしていたんだな」ともらした。弱い自分を実感的に受容したとき、それまでの空回りと無気力は消え、無理のない普通の努力ができるようになった。しかし、カウンセリングの学習場面であるがままの自分を表現し受容できたのは、グループやカウンセラーの受容的な雰囲気があったからだ。一人で自分と向き合うヴィパッサナー瞑想においては、どうして自己受容が可能となるのか。おそらく、瞑想によって潜在意識にある程度開かれた状態で的確なラベリングをまさぐっていくと、無意識の執着に根ざした心の状態をつかみ取るようなラベリングに出会いやすくなるのだ。その後の合宿の展開が、私にそれを教えてくれた。
◆気に頼ってプライドを保つ
気に逃げたことを先生に面接で報告すべきかどうか少し迷ったが、結局報告した。体験したことはできるだけ正確に伝えた方が得るものが大きいのだ。
「瞑想に集中出来ない自分をプライドが許せないから、とりあえず気に頼ることでプライドを保とうとしたんではないですか」と先生はいった。図星だと思った。「ひどい瞑想状態」にがまんできなかったので、とりあえず気に頼ることで自信を取り戻そうとしたのだ。私は、「素晴らしい瞑想状態」を得られるかも知れないという強い「期待」を秘めてこの合宿に臨んだ。その背後には、集中力が弱い自分へのコンプレックスと、そんな自分を許せないプライドとがあった。ただ「コンプレックス」とサティしただけでは、そんな自分を正確にとらえて受容したことにはならない。
4.「期待」と「自覚」(4日目)
◆深山の瞑想?
研究所では三つの部屋が、参加者の寝室であると同時に日中は瞑想室になる。3階は歩行瞑想用の洋室、2階は坐禅用の和室、1階は仮眠を含め坐禅、歩行瞑想どちらをやってもよい部屋(和室)。2階の和室は、研究所の裏手に面している。裏手には小さな庭があり、その背後は下りの斜面で林になっている。林の向こうには集落と酪農を営む農家があるそうだが、時折、牛の啼き声が聞かれるのみで樹木にさえぎられて何も見えない。
朝4時すぎから窓を開け放って2階の和室で坐禅をすると、せみ時雨や小鳥のさえずりが合奏のように注がれて、まるで深い森の中で瞑想しているようだ。4日目朝いちばんの坐禅は、思考が出ればそれにサティし、また腹の動きに戻り‥‥と、ようやく落ち着いて瞑想ができたような気がする。
5時過ぎからの朝食も、背後にせみや小鳥、時折ウグイスのさえずりを聞きながら黙々と食べる。朝食は相変わらず、自分の動作にそってサティが持続していく。朝食のサティでは、「素晴らしい瞑想体験をしたい」という期待感がない。だから、たんたんとサティを楽しめたのかも知れない。
◆「期待」と「自覚」
日中の瞑想時に、仕事はできるがプライドが高く、他人の仕事振りや落ち度に厳しい友人のことをふと思い出した。また何年かまえに、あるアメリカ人の語学教師とともに仕事をしながら、お互いにプライドを傷つけるような形で終結を迎えたことを思い出した。そんな雑念と呼応するかのように、自分が瞑想に深い禅定、サマーディを求め、神秘的な体験を求めていることを実感した。そういう体験がない自分にコンプレックスを感じている。そういう体験がない自分をプライドが許さない‥‥‥。
その時どんなラベリングをしたかはよく覚えていない。ラベリングそのものは、「コンプレックス」や「プライドが許さない」だったかもしれない。あるいは短い文章も混じっていた気がする。少なくともラベリングと、我執に根ざした自分の心の状態とが、より深く呼応し合ったのだろう。 その直後、急に腹の動きへのサティがしっかりと入っていくように感じられた。腹がとても楽に動くように感じられ、呼吸も軽くなった。
この日あたりから私の瞑想は徐々によくなっていった。ヴィパッサナー瞑想らしい瞑想になっていった。瞑想合宿にかけていた強烈な「期待」感や、深い禅定への渇愛、劣等意識やその裏返しの優越意識が徐々に「自覚」されていったのだ。
◆変化
5日目、6日目、7日目と瞑想時のサティは、さらによくなっていった。もちろん時間や条件によっては散乱や眠気もあったが、全体としてはサティがしっかり入るようになった。とくに朝いちばんの坐禅がよかった。腹の動きへのサティが持続し、ごく細やかな思考が湧いてもサティが入った。7日目のメモには、「どんな思考にも外的対象にも体の変化にもサティが入った」とある。主観的にはそんな感じだった。
この頃から、自分にとっての合宿瞑想の意味付けが徐々に変化していった。前半は、サマーディへの渇愛と、妄想の団子状態という現実との間の激しい葛藤に、「今回は10日間続けられるのだろうか」とさえ思った。やがて「深いサマーディや神秘的体験は得られそうにない」という、あきらめの感じが来た。その替わり「思考するエゴ」への徹底的な気づき(自覚)こそ、今度の合宿の課題だと思うようになった。こうした変化もサティに影響していたかもしれない。
気についても少し触れておきたい。最初は、気に頼ることを意識的・無意識的に拒否し、その後は、一時気に頼ったりした。やがてそのどちらもしなくなった。瞑想のなかで自然に気が入ってくることもあれば、そうでないこともあった。すべて流れにまかせておけばよいと思った。先生は、「『気』と判断しサティを入れる前の、熱感やピリピリ、チリチリする感覚をそのままサティすればどうですか。そのこと自体はまったく問題ないですよ」と言った。
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