◆ニューエイジ・ムーブメントとは
ニューエイジ・ムーブメントと一言で言っても、それは現代のかなり裾野の広い思想潮流を大ざっぱにくくる言葉だから、そこにはいろいろな考え方が含まれている。
もちろんニューエイジというひとつの言葉でくくる以上、そこに何かしら共通の特徴はあろうが、それも人によって、視点によって、いろいろな把握が可能なのだ。そこに無数の考え方や思想が入り交じりながら、ひとつの大きな潮流・ムーブメントを作っている。
ともあれニューエイジ・ムーブメントという言葉を広義にとらえるなら、とりあえず次のようにいえるだろう。
「伝統宗教や組織にしばられない大衆化された霊的・精神的な関心の広がり。とくに19世紀西欧のスピリチュアリズムや東洋の神秘的伝統などの影響を受けながら、組織化された宗教よりも個人の直接的な霊的な覚醒を大切にする、 広く大衆化された運動。」
私自身は、こうした関心の広がりや動きそのものは、非常に重要であり、 未来を開く可能性をはらんでいると思っている。 しかし、個々人が自由に自己を探求しようとする特徴があるので、そこに含まれる考え方や修行の形態には様々なものがあり、だからこそ逆に、疑問視せざるを得ない考え方や運動もこの流れの中に混ざってきて、 時に大きな影響を与えることがある。
中村雅彦氏が言うように「誰でも<高次の自己>へプラグ・インできると説くニューエイジ思想は新世紀においても多くの人々の共鳴を得て,大衆レベルの文化として社会的な変革の一翼を担う可能性」を秘めている。そして大衆レベルの大きな流れになっているからこそ、その中の批判すべきことは批判して、その潮流が進む方向を内部からチェックしていくことが、非常に大切なのだ。
ニューエイジ思想は、東洋の伝統的な思想と同様に、たんなる知性を超えたととろに真理を見ようとするし、それはいちばん大切なことだろう。しかし、一方で知的な批判や論理的な思考も忘れてはならない。それを忘れたり、無視したりすることは非常に危険なことなのだ。
それが不十分なとき、サイババ問題が生まれ、カルト集団が問題を起こし、商業主義にからみとられ、もしかしたら時代を間違った方向に進めてしまう、少なくとも時代を変革するだけエネルギーをもたない、死んだ流れになってしまうだろう。
そんな潮流の中で私たちがすべきことは何か。
◆自己チェックの4視点
私自身も「伝統宗教や組織にしばられず、かつ大衆的に広がる霊的・精神的な関心」の中に身をおいているといってよい。また、現代の行き過ぎた科学主義や物質主義を打開していくために、こうした関心がさらに広がっていくことは大切ななことだと思っている。
しかし、それが大衆化すればするほど、その中に身を置くひとりひとりが、自分が間違った方向に進んでいないかどうか、絶えずチェックしていくことが重要になると思う。
ではどんな問いかけをして行けばいいのか。私が、自分自身で行っていきたいと思っているのは以下のようなことだ。
1)内実を伴わない権威主義的な傾向に陥っていないか。
2)実証的に確認していくという姿勢を失っていないか。
3)すべてに対して開かれた在り方を失っていないか。
4)個としても集団としても自己肥大化するエゴイズムに陥っていないか。
確かに、現実には自分や、属する集団がこうした傾向に陥っていないかどうかを確認するのはかなり難しいかもしれない。人間は自分を守るためにいくらでも「自己正当化」してしまうものだからだ。
その点を充分踏まえつつ、まず最初の視点から検討していきたい。
◆グルを見分ける困難さ
もしニューエイジ的な潮流が、大衆レベルにまで拡がった霊的成長への関心であるなら、疑似宗教によく見られる権威主義に対してどのような新しい姿勢を持ち得るか、を明らかにすることがまず大切だろう。
ひとりひとりが自由に様々な新旧の行法を選んだり組み合わせたりしながら霊的な成長へと向かうところにニューエイジ的な姿勢の特徴がある。 しかしそれが霊的な成長への関心である以上、あちこちでグルと弟子の関係が生じるのは自然のなりゆきだろう。またそうした関係が霊的成長の決定的な要因になることも多いと思われる。真に覚醒したグルに従っていくとき、 弟子がグルを絶対的に信頼して自己を投げ出していく時にこそ、弟子の目覚めが起りやすいというのもおそらく真実だろう。むしろ、ここにおそらくグルと弟子の関係の核心があると思う。
伝統宗教の中には、グルと弟子のこうした関係にともなう危険を回避するための幾重かのチェック機能が働くのだろうが、大衆化されたニューエイジ運動の中にはそれがない。それゆえ似非グルが、弟子の絶対的信頼を利用して可能な限りの破廉恥を繰り返す、 あるいはニューエイジ的な装いをもつカルト宗教のグルが、想像も出来ないような悪事を弟子に強いるなどということが起こりやすいであろう。
問われるのは、私たちひとりひとりが真のグルと似非グルとを見分ける力を持てるかどうかだが、 これは内面的な問題なので非常に難しい。
もうひとつは、たとえ外面的な特徴からでも、真のグルと似非グルとを見分ける基準をこの運動にかかわるものが共通認識として持つようになること。
その基準のひとつが、内実を伴わない権威主義的な傾向の有無をチェックすることさろう。
◆サイババ信者の告白
グルが本物であるかどうか、内的な判断力、超感覚的な直感力、眼力などでしっかり見分けることは、かなり難しい。 一方、外的な特徴による見分けについても「巧妙に偽装された心理的操作を使えば,疑問を感じることなく,いつの間にか信者になってしまっていることもありうる」(中村氏)わけで、これも簡単ではない。
私は、見分けのための、もうひとつの可能性を考えたい。それはグルと弟子の相互関係の中で、弟子自身が権威主義的な傾向に依存していないかどうかをチェックすることだ。これは自分自身の問題なので、自分の心の状態を素直に感じとろうとする姿勢さえあれば、ある程度可能なのだと思う。
ひとつ例を挙げる。サイババ信者の話である。
「サイババはあなたがた模範的な家族を使って、霊的ファミリーのあるべき姿をアメリカ中に伝えようとしているんですよ」と人々に称えられ、サイババにも特別待遇を受ていた家族で、家族が一緒になってサイババの教えを体現しようと、けなげに努力して生きてきた信者である。
実は、その息子がプライベート・インタビューに呼ばれる度にサイババの性的快楽の犠牲になっていた。その事実を知った家族は、苦悩の果てにサイババと決別する。
「なぜあなたは自分の全てのパワーをグルに明け渡したのだとおもうか」との質問に対し、息子の母・ティナの言葉。
「サイババの名前、神の名前を唱え続けることによって、現実の苦しみから逃げ出したかったのでしょうね。誰かに頼りたかったのかもしれませんし、何かの教えに忠実に従うことによって、安心感を得たかったのかもしれません。でも、この経験から多くの気づきと学びがあったので、もう私はグルに頼りきるという、人生での大きな間違いを犯さないと思います。」(『裸のサイババ』)
彼女の言葉は、精神分析学者フロムのいう「自由からの逃走」の心理をよく表現していると思う。
「神の化身」に自分を明け渡すことによって得られる安心感。自由であることの不安からの逃走。つまり、権威あるものに自分を投げ出し、依存することによって、心の根元にある不安を打ち消す。
彼女は、サイババに裏切られることによって初めて、自分の内面の依存心理に気が付いた。一般的にグルと弟子との関係の根っこに、もしこのような権威-依存関係があるなら、それは生産的な関係ではない。霊的な成長(大いなる自由)を促す関係どころか、心理的な支配-隷属関係でしかないのである。
しかも、このような権威-依存関係は相互的なものなので、グルの側にもそれを助長するか、少なくとも黙認するところがある。自分自身の中に、そういう支配-隷属関係に安住しようとする心理がないか、たえずチェックしていくことは、非常に大切なことだと思う。
◆ サディズムとマゾヒズム
グルと弟子の真に霊的な関係や、本当の意味での宗教的な帰依と、権威主義的なものへの絶対的服従とは、一見きわめて似たところをもっており、それが問題を複雑にしているし、また様々な問題を生み出してしまう原因にもなっている。
フロムは自由からの逃避の心理を「人間が個人的自我の独立をすてて、その個人にはかけているような力を獲得するために、かれの外がわのなにものかと、あるいはなにごとかと、自分自身を融合させようとする傾向」と説明している。
劣等感や孤独感、個人の無力感を克服する一つの道は、個人的自己から逃れ、自分を失い、自由の重荷から逃れて、自己の外部のより大きなもの(グル、制度、神、国家など)に没入・服従し、その部分となるという、マゾヒズム的な努力である。一方サディズム的な衝動の根は、他人を完全に支配し、無力な対象にし、その絶対的な支配者、神になることである。
サディズムとマゾヒズムは、その根底に、孤独や不安や劣等感があり、その弱さから逃れようとする衝動の裏表だとフロムは指摘する。一方にサディズムがあり、他方にマゾヒズムがあるのではなく、両者は一つの傾向の能動的な側面と受動的な側面であり、一人の人間の中でも振り子のように揺れたり隠れたりしているのだ。
フロムは、サド・マゾヒズム的な性格を「権威主義的性格」と呼びかえている。権威に服従して、自分の不安を打ち消そうとする傾向は、他者を服従させて自分の強さを誇示する傾向と一体であるということだ。 そのどちらにおいても、真実の強さがかけているときに二義的な強さを獲得しようとする絶望的な試みなのだ。
こうした逃避のメカニズムは、「形を変え,見えにくい状態で,われわれの心の空白,虚しさを癒してくれるような格好で逆に蔓延してきている」(中村氏)と思われる。そうした傾向が時に、カルト的なグルと弟子の関係において突出的に問題化するのである。
ただし、ここには非常に微妙な問題が隠されている。それは、霊的な成長を促す生産的なグルと弟子の関係と、権威主義的なグルと弟子の関係の違いとは何かという問題である。また、それと密接にからむが、サド・マゾヒズム的でない、本当の意味での宗教的な帰依とは何かという問題である。
実はフロム自身が、ルターの宗教改革を、彼の言う「権威主義的性格」によって分析しているが、私はその内容に若干の疑問を感じている。本当に「権威主義的性格」の心理分析だけでルターの思想を説明できるのか。もしかしたらフロム自身が、宗教的帰依の本質的な部分を見誤っていたのではないか。
◆権威主義的性格
権威主義的な関係の中での絶対服従と、宗教的な深みに達した帰依とが、一見きわめて似ていることから、いろいろな問題が起るのではないか。またフロムが、ルターの宗教改革思想を、「権威主義的性格」によって説明したとき、もしかしたら宗教的な帰依の本当の意味を見落としていたのではないか。
フロムによれば、ルターの神にたいする関係は、完全な服従であった。もし人が個人としての無意味さを認め、自分を徹底的にないものにして神の前に投げ出すなら、全能の神に愛され、受け入れられ、救われるであろう。不安と疑いに満ちた個人的自我を、徹底的に自己放棄してはじめて、神の栄光に参加できるであろう。自我の滅却と完全な服従が、救済の本質的条件だというのだ。
それは、国家とか「指導者(グル)」にたいし、個人の絶対的な服従を要求する原理と、多くの共通点を持つとフロムは言う。そこに権威主義的なサド-マゾヒズムの関係を見ているのである。そしてルターの思想は、中世的な秩序が崩壊し、資本主義の勃興によって脅威にさらされ、無力感と個人の無意味感に打ちひしがれた中産階級の、自由からの逃避の心理にうまくマッチしたとうわけである。 しかし宗教改革の意味をこれだけで説明してしまっていいのか。
唐突であるが、たとえば道元の次のような言葉を比較しながら考えたらどうか。
「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、力をも入れず、心をもつひやさずじて、生死をはなれ仏となる、たれの人かこころにとどこほるべき」(正法眼蔵 生死)
ここにも自己を無にして、自分を超えた大いなるものにみずからを投げ出していくあり方が語られている。フロムは、このような言葉も「権威主義的性格」によって説明するのだろうか。
確かに、宗教改革の思想を受け入れた近世の入り口に立つ人々の心理には、自らが直面した自由や孤独から逃れて、より大きな力に服従することで安心を得ようとする傾向があったかも知れない。しかし、そこにはもっと深い宗教的な真理も隠されていたのではないだろうか。
では、権威主義的な関係の中での絶対服従と、宗教的な深みに達した帰依との違いは何なのか、それを明らかにして行くことが、グルと弟子の問題を考える上でも重要なヒントを与えてくれるであろう。
◆ 前個(プレ・パーソナル)と超個(トランスパーソナル)
おそらく人間の成長のプロセスの中で、一度はしっかりとした個人的な自我が確立されなければならないであろう。しかし、自我が単なる自我であるかぎり、それは世界や宇宙とは分離したあり方をしており、そのかぎりで根っこに不安や孤独をかかえている。
自己の根っこにある不安を癒すために二つの道がある。そのひとつが、せっかく確立しかかった自我を自分より大きく力のある指導者や組織や国家や「神」に投げ出し、それに依存・服従することで安心を得ようする方向。せっかく確立しかかった自我を捨て、来た道をもとへ戻る方向だ。フロムはこれを権威主義的性格として説明した。
もうひとつは、自己が成長しきることで自己を超えていく(トランスパーソナルな)方向である。
ところがこの両者が一見きわめて似ていて、問題をややこしくしている。
「個人が個人としての無意味さを認め、自分を徹底的にないものにして神の前に投げ出すなら、全能の神に愛され、受け入れられ、救われるであろう。不安と疑いに満ちた個人的自我を、徹底的に自己放棄してはじめて、神の栄光に参加できるであろう。」というルターの思想は、上の二つの道のどちらともとれる。多くの場合は、近代に直面した不安から逃避するために信仰として受け入れられたのであろう。
しかし、人によってはこの信仰を生き抜くことで、自我が成長の方向へと超えられ、自己を超えた(トランスパーソナルな)聖なる栄光への参与が生られたかも知れないのだ。いや、キリスト教の宗教的な深みには、確かにそういう体験があるはずである。フロムは、そういう深い宗教的な体験の意味をあえて無視しているのだろうか。
「権威主義的な関係の中での絶対服従と、宗教的な深みに達した帰依との違いは何なのか」という問は、「権威主義的な関係の中での絶対服従」という形で自我の確立以前(プレ-パーソナル)の状態に戻ることなのか、それとも自我を成長し切らせることによって、自己を超えた(トランス-パーソナルな)「大いなる命」に目覚めて、それに帰依していくかという違いであるともいえよう。
一般的に言えは、仏教・キリスト教・その他多くの宗教のなかで、上に述べた「前」と「超」の二つのあり方が、混在しているのかも知れない。
道元の先に引用した言葉は、もちろん「大いなる命」の側から発せられた言葉であろう。
「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、力をも入れず、心をもつひやさずじて、生死をはなれ仏となる」
ここで言う「仏のいへ」や「仏」は、自己を超えて、かつ包む「おおいなる命」であろう。 道元の別の言葉で言えば「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」という時の「万法」と同じであると言ってもよい。
ところで上の「ただわが身をも心をも、はなちわすれて‥‥」の文の「仏」のところにたとえば「阿弥陀仏」といれると、そのままこれが浄土教の教えと言ってもいいくらいだ。「阿弥陀仏のいへになげいれて、阿弥陀仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき」、彼は、すでに大いなる命に目覚めているだ。一方自力の修行を追求するものも、ぎりぎりのところで、己の自力の思いから解き放たれて大いなるものへなげいれてこそ、その大いなるものに目覚めるのである。
ところでヤスパースは、「人間の自力は何ら救済の功徳となるものではない。信ずるということが、すなわち阿弥陀の慈悲と救済を信ずるということが重要なのである」と親鸞の教えを紹介し、それがルター派の根本教義と同一といってよいほどに類似していることに驚きの声をあげている。(『歴史の起源と目標』)
ここで私が主張したいのは、神であろうと阿弥陀であろうと何かしら人格的な対象に己をなげいれていくとことにも、自己を超えて成長し、大いなる命に目覚める体験はあるということである。
ところが自己を無にして神的な対象になげいれるという点では、ほとんどそれと区別できないような形で、自己の確立以前の依存、服従状態に陥ってしまうような信心、信仰がありうるのである。
同じ自己を無にすると言っても、前個(プレ・パーソナル)と超個(トランスパーソナル)というまったく逆の状態が存在し、それらが同じ宗教の名前で呼ばれている場合が多いのである。
グルと弟子との関係でも同じ問題がある。先に紹介したサイババ信者だった女性の言葉は、まさにグルとの退行的、依存的、服従的な関係に気づいた言葉だと思われる。
◆ 前-超の虚偽
浄土系の仏教とルターの神学は、一方は仏、一方は神の前に自己を無にして投げ入れるという点などで、とてもよく似ている。おそらくその宗教的体験の核心には、自己を無にすることによる大いなる命への気づき、覚醒という共通ものがあるのだと思う。
にもかかわらずフロムが、個が個を超えて成長する可能性の面を宗教改革の思想の中に見ようとせず、権威主義的なサド-マゾヒズム的な関係だけを見るのは片手落ちではないのか。彼は、一方で禅をとても高く評価し『精神分析と禅仏教』という鈴木大拙との共著もあるのである。
結局、私が主張したかったのは、フロムのように宗教改革を一方的に権威主義的な関係で理解するのは一面的だが、どのような宗教も、個を超えるどころか個の独立を脅かすような逃避・退行のメカニズムを、その核心部分に含んでいるのかも知れないうことである。
神聖なるものやグルや開祖への帰依が、自己を無にするという同じ言葉で語られながら、一方で個の独立以前への退行となり、一方で超個の目覚めのである。この区別がつかないことをウィルバーは前-超の虚偽といったが、ここに宗教の問題の難しさがある。自己を無にすると言ってもそこには、前と超の両面があるである。
◆ 仏教者の戦争責任
さて、もう二つ言い残したことがある。
ひとつは先の道元の言葉をもとにして、グルと弟子の関係を振り返って見たいということである。「仏のいへ」は、大いなる命でもいいし、阿弥陀仏と言い換えてもよいだろうが、、生身のグルでも同じことなのだろう。グルが大いなる命を生ているかぎり、そこに「わが身をも心をも、はなちわすれて」いくことによって、大いなるものが確実に伝わっていくのだろうと思う。大いなるものに自己を無にして投げ出していくことが、そのまま超個への道なのである。
もうひとつは、仏教者の戦争責任の問題である。これまで話題にしてきた権威主義的な関係と前-超の虚偽との問題を考える上で、大切な事例がここにあるように思う。
岡野守也氏が、『自我と無我』(PHP新書)の中で論じていますが、戦前から戦中、日本の仏教界の要職にあた人々が、ほとんど例外なしに積極的に戦争協力の発言・行動を繰り返して来たという。
「もっとも典型的には、『無我とは天皇陛下のために死ぬことじゃ』とはっきり発言し、『天皇陛下のために喜んで死ぬように』と熱心に説法をして回った著名な禅僧が何人もいる」というのだ。
禅僧を含め日本の仏教者たちの大半が「無我と滅私奉公は同義語だ」と考えてきたと言って間違いないとのこと。
まさにフロムの言うサド-マゾヒズム的な権威主義的な関係が「無我」という言葉の下に仏教者たちによって称揚されてきたのである。「超個」を説くはずの仏教の教えが、前個的な滅私奉公の教えと混同され、ある意味では「利用」されてきたのである。
あの時代の国家体制や雰囲気の中では、表立った批判がいかに難しかったかは十分承知しつつ、また自分もその頃に生ていたら時代の雰囲気に飲み込まれて同じような考えをもっていただろうと予想しつつ、こうした事実があったことはしっかりと見据えて行く必要があるだろう。
この問題は、これほどに根が深い。今を生る私たち一人ひとりの中に、前と超を混同してしまう同じ心性が隠されている、その危険性に十分に自覚的である必要がある。
その意味で、サイババの問題も、私たち一人一人の内側の問題であると感じる。
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