以下はOSHO(バグワン・シュリ・ラジネーシ)の『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る 』(めるくまーる社、1977)の、ほぼ出だしの部分からの抜粋である。『存在の詩』は、チベット仏教の中でも特にタントラ的な色彩の強い、カギュー派という流れの始祖とされる伝説的な存在・ティロパの「マハムドラーの詩」を元にした、OSHOの講話である。
私は、この本を日本語訳の出版と同時に夢中で読んで、大いに影響を受けた。
ここには、めずらしくOSHO 自身の子供の日の体験が、さりげなく語られているので、掲載することにした。
OSHOについては、毀誉褒貶が多いと聞く。そうしたことについて私はほとんど知らないが、彼が語ったものは、以前として大きな魅力を放っている。
世界中のあらゆる神秘家たちが
コミュニケーションということに関する限り
常に無力を感じてきた
コミュニオン(交合)は可能だ
しかしコミュニケーションは駄目だ
まず第一にこのことが理解されなくてはならない
コミュニオンは全く別な次元に属する ふたつのハートが出会う―――
それは〈情事〉だ
コミュニケーションは頭と頭、コミュニオンはハートとハートだ
コミュニオンはフィーリング、コミュニケーションは知識だ
ただ言葉のみ与えられ、言葉のみ語られる
ただ言葉のみ受けとられ、そして理解される
言葉―――
言葉はその根本的な本性からしてあまりにも死んでいて
それを通しては
何ひとつ生き生きとしたものが語られ得ないほどだ
あたり前の生活の中でさえ……
究極たるものはひとまず置いておこう
あたり前の経験においてさえ
あなたが絶頂の瞬間を
エクスタティックな瞬間を知ったとき
それを言琴1で語ることは不可能と化す
子供の頃
私はよく朝早く川に行ったものだった
小さな村だった
その川はとてもとてもゆるい流れで
まるで全然流れてなどいないかにも見えた
特に朝まだ太陽が昇っていないときには とても流れているとは思えない
本当にのたりとして静かなものだ
朝、誰もおらず
水浴の人々もやって来る前
その静けさははかり知れない
鳥たちさえ歌もない
早い朝―――
無音―――
ただ静寂だけが浸み渡る
そして川面をおおうマンゴーの樹のかおり―――
私はよくそこに出かげ
川辺のはずれまで行ってただ坐り
ただそこに居た
何をする必要もなかった
ただそこに居るということで充分だった
それはなんとも素晴らしい体験だった
水浴びをし、泳ぎ
太陽が昇れば
向こう岸まで渡って行って広々とした砂の上でからだを乾かし
そこに横になって、ときには眠り込みさえした
家に帰るときっと母は尋ねたものだ
「朝の聞中あなたはいったい何をしていたの?」
「なんにも」と私
なぜなら、事実私は何をしていたわけでもないのだから
すると彼女は
「なぜそんなことがあり得るの?
4時間というものあなたはここに居なかったのよ何もLていなかったなんていうことがあり得るかしら?
何かしらしていたに違いないわ」と言う
彼女は正しい
しかし私も間違ってはいなかった
私は全く何をしているわけでもなかった
私はただ川といっしょにそこに居ただげだ
何をするでもなく、事が起こるのにまかせて―――
泳ぐ感じになったら………
忘れてはいけない、泳ぐ感じになったら、だ
そうしたら泳ぐ
けれどもそれは私の側で何かをするということじゃなかった
私は何を強要していたのでもない
もし眠気が来れば眠った
もの事が起こってはいた
しかしそこにはそれをする者はなかった
そして私の最初の〈さとり〉の体験は
その川の側ではじまったのだった
何をするでもなく
ただそこに居てて―――
何百万というさまざまな事が起こった
ところが母は私が何かをしていたに違いないと言って聞かない
しかたなく私は言う
「わかったよ
水浴びをした、太陽の下でからだを乾かした」
そこではじめて彼女は満足した
が、私は満足しなかった
なぜならぱ
その川で起こったことは「水浴びをした」などという言葉では
とうてい言い表わすことのできないものだからだ
それではあまりにも貧しく色あせてしまう
川と戯れ
川面に浮かび
川で泳ぐという体験の深さの前には
ただ「水浴びをした」などという言葉はまるで意味をなさたい
あるいは
「そこに行って堤を歩き、坐っていた」と言らてみたところで
それは何も伝えてくれはしない
あたり前の生活の中でさえ
あなたがたは言葉というもののむなしさを感ずるだろう
それどころか、もしそのむなしさを感じないとしたら
それはあなたがいままで
全く生きてなどいなかったということを表わしている
いままでとても浅薄にしか生きてこなかったということだ
もし何であれあなたが生きてきたことが言葉で伝え得るとすれば
それはあなたが全く生きてなどこなかったという意味なのだ
何か言葉を越えたことがミ起こり始めたとき
そのときこそはじめて
生があなたに起こり
生があなたの扉を叩いたということになる
まして究極なるものがあなたの扉を叩くとき
あなたはまるで言葉など越え去ってしまうものだ
あたたは唖と化す
口をきくことなんかできはしない
ただの一語といえどもあなたの中に生じはしない
何を語ろうと
そんなことはことごとくあまりにも色あせ
生気なく
無意味でなんの重みもなく
あたかも自分に起こったその体験に不義をなしているかのようだ
こ れを心にとめておきなさい
なぜならば マハムドラーとは最後の、そして究極の体験なのだから―――
マハムドラーとは宇宙との全体的なオーガズムを意味する
もしあなたに誰かを愛したことがあり
ときとして溶け合い合一するのを感じたことがあったら
―――二人はもう二人じゃない
からだは別々であっても
ふたりのからだの間の何かが橋を、黄金の橋を作り
内面に〈二〉は消え失せて
ひとつの生命エネルギーが両の極をふるわせる
もしもそれがあなたに起こったことがあったら
そのときにのみあなたにも マハムドラーの何たるかを理解することができるだろう
それより何万倍も何億倍も深く
何万倍も何億倍もハイなもの
それがマハムドラーだ
それは〈全体〉との
宇宙との全面的なオーガズムだ
それは存在の源への溶解だ
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