人間性心理学と禅仏教─成長と悟りのあいだ─(4)

目次 (太字の部分を本ページに掲載。本論文は雑誌等には未発表です。) 

はじめに 

第1章 人間性心理学と自己理論   

1 人間性心理学とは何か   

2 成長する力   

3 自己と経験の不一致   

4 自己自身になるということ 

第2章 十分に機能する人間   

1「十分に機能する人間」とは?   

2「十分に機能する人間」と「全機現」   

3 「自己理論」は「悟りの理論」たり得るか  


3 「自己理論」は「悟りの理論」たり得るか  

ロジャーズは、その豊富なセラピー経験の中でクライエントのパーソナリティーの変化を観察し、その変化のダイナミックスを自己構造の弛緩や崩壊とその再体制化、あるいは自己構造のゲシュタルトの変化と自己受容の増大という枠組みによって理論づけた。ロジャーズの自己理論は、人間の心理的成長を説明する理論としてきわめて説得力に富み、また包括的なものだといえるだろう。そして、自己構造の再編によるクライエントの変化・成長を理論的に究極の姿まで追求することで、理論的な帰結として導き出されたのが「十分に機能する人間」という仮説であった。  


上に見たように、「十分に機能する人間」として描かれる人間のあり方は、禅の覚者が実際に示す生き方、あるいは禅がめざす人間のあり方と驚くほどよく似ていた。なぜ両者において、このように極めて共通性の高い人間像が描かれ得たのだろうか。これは、単なる偶然ではないだろう。心理的不適応からの解放の場合であれ、「悟り」と言われる宗教的な変化の場合であれ、人間が変化・成長する場合には、ある共通の心理構造が働いているからではないか。心理的な不適応に陥った人間が癒されて成長していく変化の方向と構造とは、「悟り」が開かれるときの心理的変化の方向および構造と、段階こそ違え、同じ変化・成長として、何かしら共通なものをもっているのではないか。だからこそ、心理療法で見られる人間の変化を、その方向に沿って仮りに究極の地点にまで延長したとき、それが禅の覚者の姿にほとんど重なってしまうのである。セラピー現場で観察された人間の変化・成長の方向を、自己理論に沿ってまっすぐに伸ばした線上に描かれた「十分に機能する人間」という理想は、必然的に禅の覚者の生き方と同じになってしまうだ。  


この事実はとりもなおさず、ロジャーズの自己理論が人間の心理的成長を、その最大限の可能性まで含めて説明しうる、きわめて包括的で秀れた理論であることを示しているのかも知れない。 しかし、だとすればロジャーズの自己理論は、人間の「悟り」の構造を説明するうえでも充分な理論なのか。「十分に機能する人間」と禅の覚者の姿とが深く共通するなら、禅でいう「悟り」に至る道も、ロジャーズの自己理論で説明し尽くされるのか。つまり「自己理論」はそのまま「悟りの理論」たり得るのか。その答えはイエスであり、かつノーである。半分はイエスであり、半分はノーなのである。では、どの部分がイエスであり、どの部分がノーなのか。  


「はじめに」で触れたように本論の第一の問いは、人間の心理的・人格的成長はどのような心理学的な構造によって説明することができるかにあった。この問いは、ロジャーズの自己理論を中心にして考察された。そして第二の問いは、宗教的な目覚め、「悟り」とは何かという問いであった。この問いに対するわれわれの基本的な仮説は、宗教的な覚醒あるいは「悟り」とは人間の人格的・心理的な成長の究極の姿、人間の成長の可能性が最大限に花開いた姿ではないかということであった。それゆえ本論のこれからの課題は、覚醒あるいは「悟り」という体験的な事実の心理学的な構造を説明するうえで、ロジャーズの「自己理論」のどの面が有効で、どの面が不充分かを明らかにしながら、第二の問いに答えていくことである。  


この問いに対する本格的な検討は、第4章と第5章で行うだろう。ここでは、禅者のいくつかの言葉をあげながら、禅の中にロジャーズの理論では説明し切れない側面があることを示唆するにとどめたい。 最初は、先にも触れた道元の『正法眼蔵』(生死)の中の有名な言葉である。「ただわが身をも心をも、放ち忘れて仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。」 


ここで言う「仏」とは、道元が別の箇所(現成公案)で「仏道を習うと言うは自己を習うなり。自己と習うというは自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」といい、「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するは悟なり」というときの「万法」に対応すると言えよう。さらに言えば、道元が「仏の方より行われて」といい、「万法すすみて自己を修証する」というのは、先に引いた鈴木大拙の「絶対受動」のあり方を示している。すなわちそれは、意識的な自己中心的な努力を捨て去って、大拙が「生命それ自体の原則」「生命の泉」「自己の存在の本性」と表現したような大いなる〈いのちの働き〉に「わが身をも心をも、放ち忘れて投げ入れて」いくあり方である。  


問題は、道元が「仏の方より行われて」といい「万法すすみて自己を修証する」という悟りの状態が、ロジャーズが「全体的、有機的反応への信頼」と表現する状態と本当に同じかどうかということである。「かなり近い」とは言えるかもしれない。確かに「全体的、有機的反応」という表現は、大拙の「生命それ自体の原則」「生命の泉」という表現に非常に近い。両者が、変化の同じ方向を示唆しているのは確かだろう。しかし、ロジャーズの「有機体」は、道元の「仏」「万法」に比べるとはるかに狭い。「仏」「万法」という言葉は、個々の生命、有機体のレベルをつらぬきながら、それを超えて流れる何かしら〈大いなるもの〉を暗示している。ロジャーズの「有機体への信頼」という表現は、もちろんそこまで暗示していない。これは、科学者、心理学者としてのロジャーズの単なる表現上の抑制の問題なのだろうか。それとも、ロジャーズの視野そのものに、あるいは自己理論の射程範囲そのものに限界があったということなのだろうか。  


すでに簡単に触れたようにわれわれの結論は次のようなものである。すなわち、自己理論は人間の心理的成長のダイナミックスを説明するきわめて包括的な理論であり、それゆえ人間の成長の最大限の可能性である「悟り」の理論としても前提的な枠組みをなすが、しかし「悟り」の本質的な部分を語るにはなお不充分な面がある、ということである。では何が不充分なのか。この問題を明らかにするためには、単に禅仏教を取り上げるだけではなく、後の章で大乗仏教の理論そのものに迫り、それをロジャーズ理論と比較する必要があるだろう。 ☆  


さて、次に指摘したいのは、人間が変化し成長するときの条件の問題である。人間は、どのような条件のもとで変化・成長するのだろうか。あるいは、どのような条件のもとで最大限の成長としての「悟り」が生ずるのだろうか。「悟り」と一般的な成長との間には、それが生ずる条件に何かしら違いがあるのか。これはきまめて難しい問題だが、少なくともロジャーズのセラピー理論と禅の立場との間には大きな違いがある。  


ロジャーズは、人間が基本的にもっている傾向としての実現傾向を信頼し、それが最大限に発揮されるためにカウンセラーにどのような態度・条件が必要かを吟味した。通常われわれは、人の話を聞くとき、多かれ少なかれ自分の価値観によってそれを評価したり、先入見や偏見、とらわれやこだわりによってそれを歪めたりしながら聞いている。ロジャーズの来談者中心療法でカウンセラーがまず自分のものとしなければならない態度のひとつは、来談者(クライエント)の話を評価したり批判したりすることなく、あるいは是認したり否認したりすることもなく、あるがままに尊重し受け入れることだという(無条件の肯定的配慮)。そのように良きも悪しきも全て受容される雰囲気の中でクライエントは、しだいに防衛のヨロイを解き、自由に自己を語ることによって、あるがままの自分の姿を自分自身に受け入れていく。カウンセラーにあるがままを受容されているという感じが強ければ強いほどクライエントは自由になり、自分に自分を許せるようになり、そうすることによって自分への気づきを深め、変化し、成長する。   


そのためには、何よりもまずカウンセラー自身が、あるがままの自分を自分自身に許していなくてはならない。それは、「この関係の中で彼が、自由にかつ深く自己自身であり、彼の現実の体験がその自己意識によって正確に表現される」ことである。つまりセラピーの中でカウンセラーが、自分のどんな感情も否定しないで(防衛しない)で自由にその感情を許容できるということである(自己一致)。もしカウンセラーにとらわれやこだわりがあれば、カウンセラーはそれを通してクライエントの発言を聞くことになり、ありのままのクライエントの気持ちが心に入ってこない。自分の色メガネによって判断や解釈をすることとなり、受容から遠くなる。  


受容とは、道徳的批判や価値観を超えて、あるがままを素直に見、許している状態である。「生」があるがままにあることが許されている状態である。そして、自分を素直に受け入れる自己受容と、人をあるがままに認める他者受容とは、同じひとつの事実の内と外との現れである。他者をあるがままに受容することは、自分自身の自己一致に基づくことなのである。人間は、自分を許している程度にしか他人を許せない。 カウンセラーが自己を受容している度合に応じてクライエントの感情を共感的に理解する度合も増す。共感的理解とは、こちらの尺度を通じてクライエントを理解することではなく、クライエント自身も気持ちや見方や考え方(内部照合枠)そのものによって、それを通してクライエントを理解することである。されに「クライエントの私的世界をあたかも自分自身のものであるかのように正確に感じとること」である。 クライエントは、カウンセラーの受容と理解をつねに伝えられていなければならないし、そのようにされてのみ自分の気持ちを感じるままに表現し、展開していくことができる。そのためにカウンセラーは、自分が感じとったクライエントの気持ちをできるかぎり正確な言葉にしてクライエントに伝達し続ける。  


以上をロジャーズ自身の言葉で要約しよう。彼は、建設的なパーソナリティーの変化が生じるにはどのような変化が必要であるかを検討し、次のような六つの条件にまとめている。 

①二人の人間が、心理的な接触をもっていること。   

②第一の人──この人をクライエントと名づける──は、不一致の状態にあり、傷つきやすい、あるいは不安の状態にあること。   

③第二の人──この人をセラピストと呼ぶ──は、この関係のなかで、一致しており、統合されていること。  

 ④セラピストは、クライエントに対して無条件の肯定的な配慮を経験していること。   

⑤セラピストは、クライエントの内部照合枠に感情移入的な理解を経験しており、そしてこの経験をクライエントに伝達するように努めていること。   

⑥セラピストの感情移入的理解と無条件の肯定的配慮をクライエントに伝達するということが、最低限に達成されていること。(11)  


ロジャーズは、この六つの条件以外の「他のいかなる条件も必要でない。もしこれらの六つの条件が存在し、それがある期間継続するならば、それで十分である。建設的なパーソナリティー変化の過程が、そこにあらわれるであろう」という。つまり、この六つの条件がクライエントのパーソナリティー変化の必要にして十分な条件だというのである。ちなみにここでロジャーズが主張していることのポイントは、セラピストは少なくともそのセラピーの場面では「十分に機能する人間」である必要があるということであろう。そして、このような条件が真に満たされ、サイコセラピーが最大限に成功するならば、そのときクライエント自身も「十分に機能する人間」へと向かって変化し始めるはずだとするのである。  


しかし、これは禅の方法、とくに臨済禅の方法とは明らかに違う。ふたたび鈴木大拙の言葉を引こう。  


「聖書に『門を叩け、さらば開かれん』という言葉がある。人はたいていこの叩くという意味を解せぬ。拳をもって軽く戸を叩くことぐらいにしか思っていない。しかし、精神的にいえば、ここにいう叩くはまったく普通の叩くではない。その存在を組成する肉体的・知的・道徳的・精神的のいっさいをもって、自我を創造の門に叩きつけることである。人間の全存在が、まったく力つき、身内の最後の一滴の力を使ってこの(創造の)門に投げつけられるとき、はじめてそれは衝撃を生じて彼を不可思議の領域に突き進めるのである。禅の鍛練はこの体験に至らせる。それゆえに、禅と芸術がともにその生命力をあおぐ源である『無意識』なるものは不可思議の領域以外の何物でもない。」(12)  


ここに語られているのは、日常的な自己による意志的なはからいや努力の限界にまで突き進むことである。その努力の果てに自己の否定的転換の道が開かれる。日常的な自己の限界や矛盾、あるいは人生そのものの矛盾や苦悩に根源から出会い、自己を絶対的に否定せざるを得ないところ(限界状況)まで追い込まれたとき、そのどん底において自己は、自己を超えたものに出会うようだ。すなわち「万法進みて自己を修証する」のである。  


自己が徹底的に否定し尽くされたとき、逆に自己ならざる自己として生まれかわるのだろう。「真実の自己」、「無相の自己」(久松真一)が現成するのだろう。「大死一番、絶後に蘇る」という自己の否定的転換は、禅の修行にとって根源的なものなのである。聖書(マタイ伝)に、「おのが命を救わんと思うものはかえってこれを失い、わがためにおのが命を失うものはかえってこれを得べし」とあるのも、自己の否定的転換に通ずる何かを物語っているはずだ。   


問題は、ロジャーズのセラピー論にこの「自己の否定的転換」という契機があるかということである。もちろんロジャーズは、セラピストの受容、無条件の肯定的配慮の中でクライエントに自己構造の崩壊や弛緩、そしてその再体制化が起こることを繰り返し説く。その再体制化の過程は、ある意味で「自己の否定的転換」と似ており、構造的に共通するものをもっているだろう。しかしそれは、自己がぎりぎりの限界まで追い詰められ、その絶対否定のどん底から百八十度の転回をして、「無想の自己」として蘇るという過程とは、おそらくその徹底性において質的に違うものである。セラピストの受容や肯定的配慮という条件そのものの中には、少なくとも自己が絶対的に追い詰められ否定されるような限界状況はない。受容的な雰囲気の中でクライエントの自己構造に弛緩や崩壊が起こったとしても、それに続くのは、せいぜい自らの生の現実により根差した再体制化された自己が出現することであり、あいかわらず自己が保持されている状況に変化はない。自己が再体制化されることと、自己が絶対的に否定されて「無想の自己」として蘇ることの間には、その変化の方向は同じでも、徹底的に大きな質的な差があるのも確かなようである。   


この徹底的な質的な差とはどのようなものだろうか。確かにロジャーズのいう「十分に機能する人間の理論」は、その自己理論の理論的な帰結として、人間の可能性が最高に実現された状態を描いていた。しかし人間がその可能性を最大限に開花させた状態に至るまでには、自己が一度絶対的な否定の門をくぐりぬけなければならぬという自覚はロジャーズの理論の中には見出せない。これはもはや、人間が成長・変化するときの条件の問題を超えて、ロジャーズの人間観と禅的な人間観の違いにかかわる問題かも知れない。


注 

(1) ロージャズ全集・第8巻 『パースナリテイィー理論』(伊藤博編訳、岩崎学術出 版社、 1967年)、 177頁。以下ロージャズ全集からの引用は、本文に以下の例のよ う略記する。(全集8巻、177頁) 

(2) ロージャズ全集・第12巻 『人間論』(村山正治編訳、岩崎学術出版社、1967年) 

( 3) 『自己意識の心理学』(東京大学出版会) 63頁および81頁参照。

 (4) 日本の禅語録・第15巻 『無難・正受』(市原豊太著、講談社、1979年) 214頁。

 (5) 同上、60頁。

 (6) 大森曹玄 『剣と禅』(春秋社、1973年) 22頁。

 (7) 鈴木大拙 『禅と日本文化』 (岩波書店、1940年) 69~70頁。 

(8) 鈴木大拙 『禅』 (筑摩書房、1965年) 42頁。

 (9) 同上、 42頁。 

(10) 前掲、 『禅と日本文化』 160頁。 

(11) ロージャズ全集・第4巻 『サイコセラピーの過程』(伊藤博編訳、岩崎学術出    版社、 1966年)、 119~120頁

 (12) 前掲、 『禅と日本文化』 161頁。

 (13) 久松真一「悟り(二)――後近代的人間像――」(『講座禅・第一巻・禅の立場』 西谷啓治編、筑摩書房、1967年所収)

 

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