Noboru Ishii
「気」の修練の過程で、あるいは修練の結果として、「意識の覚醒」ないしは「悟り」といってよいような体験をする人々が、確かに存在するようだ。「気」と「悟り」とには何かしら本質的な関係があるのだろうか。それとも「気」にとって「悟り」は、あくまでも偶然的・付随的で二義的なものでしかないのだろうか。何人かの気功家や武道家あるいはヨーガの行者らの報告を見ながら、この問いを検討してみよう。
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合気道の開祖・植芝盛平は、42歳の頃の体験を次のように語っている。
「たしか大正14年の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地 が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私の身体をつつむと共に、私自身も黄 金体と化したような感じがした。それと同時に、心身共に軽くなり、小鳥のささやき の意味もわかり、この宇宙を創造された神の心が、はっきり理解できるようになった。
その瞬間、私は『武道の根源は、神の愛――万有愛護の精神――である』と悟り得て、 法悦の涙がとめどなく頬を流れた。その時以来、私は、この地球全体が我が家、日月 星辰はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や、名誉や、財宝はもち ろんのこと、強くなろうという執着も一切なくなった。」(1)
この体験をする以前に植芝盛平は、各流派の武道を遍歴し、とくに竹田惣角からは大東流柔術を学んで、その免許を得ている。37歳のころには、修行道場・「植芝塾」を開設するが、自らの武道を本格的に「合気の道」と称して主唱しはじめるのは、42歳の頃のこの体験で武道の新境涯を開いて以後のことである。 植芝がこの体験を得るにあたって「気」は何かしら本質的な役割を果たしているのだろうか。なるほど上の文中にも「黄金の気」という言葉は見られるし、また別の箇所で植芝自身つぎのようにも言っている。
「私は武道を通じて肉体の鍛練をし、その極意をきわめたが、武道を通じて、はじ めて宇宙の神髄を掴んだとき、人間は『心』と『肉体』と、それをむすぶ『気』の三 つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟った。
『気の妙用』によって、個人の心と肉体を調和し、また個人と全宇宙との関係を調和 するのである。」(2)
確かに植芝は、「気の妙用」による「個人と宇宙との調和」すなわち「悟り」を説いている。彼にしたがえば「気」は、「個人と宇宙との調和」にとってなくてはならないものなのである。しかしそれは、武道を通じて「宇宙の神髄を掴んだ」ときに悟った内容であって、「気」に導かれてそういう「悟り」に至ったと、彼が語っているわけではない。 では、修練によって「気」の働きを高めることが、「悟りへの道」を必然的に切り開いて行くことにつながるのだろうか。「気」は、「悟り」を得るうえで何かしら本質的な役割を果しているのだろか。これが、われわれの問いである。この問いに答えるためには、さまざまな角度から「気」と「悟り」の関係を検討することが必要だろう。
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中国気功ないし中医理論では、気功による修練の本質を「練精化気(精を練って気に化(かわ)り)、練気化神(気を練って神に化わり)、練神還虚(神を練って虚に還える)」として捉える場合が多いようだ(趙光(3)、林厚省(4)等)。 まず「練精化気」は、気功の最初の段階。ここでいう「精」とは、人体中のエキス的な栄養物質をも含めた物質的なもの。この「精」を練って生命エネルギーである「気」に転換するのが「練精化気」である。これは、下腹部に位置する下丹田いおいて行われるという。
次の「練気化神」でいう「神」は、日本語としての「精神」や「失神」、「神経」という用語からも察しがつくように、意識や精神活動を意味する。この段階では、養われた生命エネルギーとしての「気」を、「特異功能」や創造性をも含めた高度な精神作用(「神」)に転化する修練が行われる。胸の中央内部に位置する中丹田で行われる。 さらに修練が深まり、最終段階である「練神還虚」になると、「虚に還える」、すなわち何ものにも捕らわれない虚無の境地に還えり、「天地人合一」の知慧が開けるという。完全な没我の状態であり、「悟り」である。この変容は、眉間の奥、大脳の中心部に位置する上丹田で生ずるという。
このように「練精化気、練気化神、練神還虚」という語によって、中国の気功理論そのものの中に気功の最終目的を「悟り」であるとする考え方がはっきりと謳われていることが知られよう。
中国ではまた、伝統的に「性命双修」ということが言われてきたという。「性」は、性質、本性といった意味だから、性を養うとは精神性、人間性を磨くということだ。「命」は、身体の健康を指す。それゆえ「性命双修」とは、「性(人格)」にも「命(健康)」にも片寄らず、両方を並行して気功の修練を行っていくのがよいという考え方だ。しかし、この語においては、精神的なものと身体的なものを「双方とも修める」というニュアンスで、双方のつながりをはっきり表現してはいない。
これに対し、「練精化気、練気化神、練神還虚」という語では、物質的なものと精神的なものが「気」という一点でしっかりつながっている。修練による「気」の質の変化、ないしは高度化が、「悟り」への道を必然的に切り拓いていくという考え方を含んでいる。「もの(精)」から「こころ(神)」へ、さらには「悟り」と連なる「気」のこうした捉え方を、われわれは事実の裏付けによってどこまで確認することができるだろうか。それを追求するのが本稿の課題である。
仏教学者として著名な玉城康四郎氏は、長年仏教の禅定にいそしんできたという。言うまでもなく仏教では、ブッダ以来、禅定という静的な修行が軸となってきた。経行や常行三昧など、多少は身体的な訓練も伴うが、中心となるのはあくまでも禅定であろう。ところが玉城氏は、禅定と平行して気功も実修するようになってから、訓練において体験されるものに変化が生じてきたという。気功と禅定とが相乗効果をおこしたのである。「気功によって禅定が思いがけなく促進され、逆に、促進された禅定によって気功の自覚態がますます深まって」いったという。
玉城氏はこの相乗効果を、静的な修行と動的な修行の相乗効果だろうと述べているが、その相乗効果において、生命エネルギーとしての「気」が具体的にどのような役割を果たしたのか、あるいは本質的な役割を果たしたのかどうかについては残念ながら触れていない。また、気功の実修を重ねていくうちに、「精」とは何か、「気」あるいは「神」とは何かが体感され、さらに「精から気へ、気から神へと、全人格体が練られ、熟していくさま」が体感されともいう。(5) その「体感」の内容についても具体的には触れていないが、気功が、禅定との相乗効果によって「悟り」ないし「解脱」を促進するという体験的事実の報告は、われわれの問いに対するひとつの傍証にはなるだろう。
日本に伝統的なヨーガを普及するうえで大きな功績のあった故・佐保田鶴治氏は、よくこんな譬えでヨーガを説明していた。ヨーガは一つの大きな学園であり、そこには幼稚園から大学院まである。幼稚園から始めて順序よくすすみ、継続する意志と能力さえあれば大学院まで進むことができる。ところが、他の高等宗教には、大学や大学院はあるが、それより下のレベルの学校を欠いていることが多い。 (たとえば禅仏教における座禅は、いきなり大学院レベルの実習を強いるものといえるかもしれない=筆者。) したがって落第者も非常に多い。ヨーガは、どんな人にも入りやすく、努力と才能に応じて段階的にいくらでも高く登れ、最高の霊性の開発にさえ至ることができる長所をもつというのである。(6)
気功もその意味ではヨーガに似ているだろう。気功の修練には「気感」という確たる「道しるべ」があり、段階を踏めるからである。たとえば、座禅は気功の静功にあたるが、原則的にその行で主張されるのは、調身・調息・調心だけである。もちろん気功でも、調身・調息・調心は主張されるが、それだけでなく自分のレベルに合わせた気功法の修練によって、自分のレベルに応じた「気感」をつかみ、それを練りながら一歩一歩とさらに高度のレベルの「気」に高めていくことができる。「気感」の質的な変化をたよりにし、「道しるべ」としながら修行をつづけていくことができる。気功が「インデックス付きの禅」と称されたのも、このような意味でだろう。問題は、「気感」が「悟り」という目標にとって、あくまでも、そしてどこまでも「道しるべ」であり「インデックス」に過ぎないのか、それとも「気感」の質的な変化そのものが、精神の純化や意識の覚醒に連なっていくのかということである。「気」と「悟り」とには、何かしら本質的なつながりがあるのかどうかである。
00/07/04 追加
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